河野貴明


 名前を呼ばれて、“それ”を受け取りに教卓の前まで進む。
 先週やった、実力テストの答案用紙。出来ることなら一生、返してくれなくったって良いのに。
 周囲にはもう、今にも死んでしまいそうなくらい落ち込んでる奴もいるけれど。良かった。何とか平均点──よりも多少悪い──で済んだ。


「なあ雄二、お前はどうだった」


 俺よりも一つ後にテストを返された雄二に話を振る。自分でも情けないとは思うけれど、とりあえず自分より点数の低い相手を見て安心したいと言うのは、人間としてこらえることの出来ない性のようなものだろう。
 この時、間違っても小牧さんの答案を見てはいけない。


「クックックックッ・・・・・・ふはーっはっはっはっは!!」


 突然高笑いし始めた雄二に、クラス全員の注目が集まる。手には今返された答案用紙。
 まさか雄二、お前、あまりの点数の悪さにとうとう頭が


「違うっ!! 貴明、俺を昨日までの俺と思うなよ。見ろ、このサンサンと輝く俺の答案用紙を!!」


 そう言って、俺の目の前に自分の答案を突きつける。
 そこには、×よりもはるかに多い○が赤く書き加えられていて。


「どうだ、見たか、この俺の真の実力を。まあ、俺がちょっと本気をだせば、これくらいのテストなんてちょろいちょろい。姉貴にだって、もう大きな顔はさせないぜ」


 確かにこの点数だったら、タマ姉だって文句は付けないだろう。
 しかし、前からやればできる奴だとは思っていたけれど、いきなり普段の3倍以上の点数を取れるとは思わなかった。


「ちなみに、カンニングは一切してないからな」


 思っていたことが顔に出てしまったのか、雄二がそう言って念を押してくる。


「でもこの点数、カンニングもしないで急に取れるような点数じゃないだろ。雄二、お前いつの間にそんなに勉強してたんだ?」


「ん〜? まあ教えてやっても良いが、いや、どうするかな〜」


 どうするかな〜、と言う割には言いたそうだな雄二。


「実は今回さー、とっても優秀な家庭教師に勉強教わっちゃってさ〜」


 よほど自慢したくて仕様がないらしい。こっちが促す前に勝手に話し始めた。
 雄二のにやけた顔を見ると、よほど美人の家庭教師なんだろう。しかもあの雄二に、これだけの点数をとらせたんだから有能なのも間違いなさそうだ。
 確かに、自慢したくなるのも無理はないくらい、凄い家庭教師なんだろう。タマ姉にでも教えてもらったのか?


「なんで姉貴になんて教わらなけりゃいけないんだよ」


 まあ、確かにそうか。タマ姉に教えてもらって、素直に勉強するようなやつでもないし。


「実はだな」


「ああ、イルファさんだろ、お前が勉強教わってたの」


 なるほど、イルファさんならこいつが浮かれていた理由もわかる。優秀なのは今更確認することじゃないし。


「なんだ、知ってたのかよ。俺がイルファさんに家庭教師お願いしてたこと」


「いや、知らなかったけど。そういえばイルファさん、ニ三日用事で出かけてるって珊瑚ちゃんが言ってたけど。お前に勉強教えてたのか」


「ああ、この間試験運用の為に俺の家に来たよしみでな、姉貴が。俺もイルファさんの言うことなら聞くだろうって連れてきて」


 実際ちゃんと勉強してたんだから、タマ姉の判断は正しかった訳だな。
 でも良かったじゃないか。イルファさんに勉強教えてもらったなんて。しかもタマ姉のお墨付きで。


「いや、それがな。確かにイルファさんと一つ屋根の下、一緒に勉強することに胸をときめかせていたことは否定はしないんだが。貴明、お前も騙されるんじゃねぇぞ。イルファさん、あれはやるときは徹底的にやる人だ。途中、何度か姉貴の顔が天使に見えたぜ」


「嘘だろ?」


 あのイルファさんがタマ姉より? あ、いやでも。


「嘘を言ってどうするよ。お陰でほれ、前回のテストでは最下位を争っていたこの俺が学年でも上から数えた方が早いくらいだ」


 もっとも、もっと優しく、イケナイことまで教えてくれるっていうのなら、いつでも大歓迎だがな。最後にそう付け加えることを忘れないで、雄二は席に戻っていった。
 まあ、最後の一言は無視するとしても、イルファさんに勉強を教われれば、かなりいい成績を取れるようになることは間違いないみたいだ。
 雄二の言うことは気になるけど、最近テストの点数も下がり気味だし、うーん。





「それで、私に声を掛けてくださったわけですね」


「うん。タマ姉イルファさんの教え方は褒めていたし。俺もそろそろ、頑張らなきゃいけないと思ってさ」


 結局、イルファさんには家庭教師をお願いすることにした。
 このままズルズルと成績が落ちていくのを眺めていても仕方がないし、一度気合を入れて勉強するのも良い事だろう。
 実を言えば、最近の俺の成績を(主に雄二から)知ったタマ姉に、塾に通うか、それが嫌ならタマ姉に勉強を教わるかの選択を迫られたせいもあるんだけれど。
 タマ姉の家で一日中缶詰になって勉強するくらいなら、こうやってイルファさんに来てもらった方がずっといい。
 それに、イルファさんなら大丈夫だろうって、タマ姉も納得してくれたし。


「そんなわけでさ、あんまり出来のいいせいとじゃないけど、よろしくお願いします、イルファ先生」


「先生、ですか?」


「あ、うん。イルファさんには勉強を教わる訳だし」


 イルファさんの今の服装、いかにも女教師って感じだし。
 雄二に話だけは聞いていたけど、イルファさんはまず服装からこだわるタイプみたいだ。眼鏡まで付けて。
 イルファさん、って言うより本当に、イルファ先生と言ったほうがしっくりくるくらいだから。


「・・・・・・わかりました。そこまで貴明さんが私のことを頼ってくださるのであれば。このイルファ、全身全霊をかけて、貴明さんにお勉強を教えて差し上げますっ!」


 俺がなんとなく言った一言が、イルファさんを本気にしてしまった。俺を見る、目がマジだ。怖いくらい。
 まずったかな、イルファさんをここまでやる気にしちゃって。
 いや、俺は勉強を教わるためにイルファさんに来てもらったんだから。本気を出してもらうなんてむしろ望むところだろ。


「先生・・・・・・私が、貴明さんの・・・先生だなんて。ああっ、どうしましょう!?」


 まずったかなぁ・・・・・・


「それでは、早速。こちらの問題から解いてみましょう。30分以内に解いてくださいね」


 そう言うと、イルファさんから問題集を渡される。
 何のことはない、いたって普通の問題集で。
 イルファさん、またいつかみたいに暴走し出したのかと思ったけど。俺の気のし過ぎだな。
 さあ、気分を入れ替えて、集中しないと。
 そして問題集を捲ったとたんに、目の前に飛び込んでくる数字と記号の羅列。普段ならここで挫けてしまいそうになるけど、今日の俺は一味違う。なんと言ったって、すぐ隣でイルファさんが俺のことを見ているんだから。
 ペンを握る手にだって、力が入るってものだ。


「うーん」


 カリカリとペン音を立てて問題を解いていく。実のところイルファさんに来てもらう前から勉強は始めていたし──全く出来なかったら恥ずかしいじゃないか──これくらいの問題なら何とか解けないこともない。
 それでもやっぱり、中にはどうしても解けない問題というのがあって。
 あ、これ、昨日やってた時も同じような問題で解けなかったんだよなぁ。


「どうしました? 何かわからないところでもありましたか」


「あ、うん、この問題なんだけどさ。ここの計算がどうしても解けなくてぇぇぇぇぇぇ」


 いきなりの不意打ちに、悲鳴を我慢することさえ出来なかった。
 急に俺の背中に襲い掛かる、柔らかな感触。


「あ、ここの問題なら、まず先にこちらの式をエックスイコールの形に直して」


 俺の背中越しに問題集を覗き込むイルファさんは、一つ一つ丁寧に指を差しながら問題の解き方を説明してくれる。
 ただ、そんな格好でいる都合上、どうしてもイルファさんの体勢には無理がでてしまって。
 頑張って腰をかがめるものだから、どうしても俺の顔のすぐ横にイルファさんの横顔が来てしまう。
 一生懸命俺に説明しようとしてくれればしてくれるほど、体勢は前のめりになって俺との密着度が高まっていく。


「そしてこの式をその式に当てはめれば、あとはこの前の問題と解き方は一緒になりますよ」


 と言われたって! え、エックス!?


「あとは貴明さんだけでできますね」


 頭の中が沸騰してしまいそうな衝撃は、襲い掛かってきた時と同じくらい唐突に背中から離れていった。
 額に浮かんだのは冷や汗なのか脂汗なのか、慌ててイルファさんを振り向いてもイルファさん、さあどうぞ、って涼しい顔。


「いいいいイルファさん!?」


「まだ、解らないところがありますか?」


 何か俺は、大きな間違いをしてしまったんじゃないだろうか。そんな気分になる。
 バッドエンドまで一直線な選択を選んでしまった時のような。
 そんな嫌な予感を覚えながらも、再度目の前の問題集に取り掛かる。でもというかさすがにというか、さっきみたいにスラスラといくのは無理だったけど。
 それでも手を止めなかったのは、問題を解くことをやめたとたん、またさっきのような指導が待っているに違いないという予感が働いたためで。
 その予感は正しかったのか、取り合えずイルファさんからの過剰なスキンシップを浴びることなく時間が進んでいく。
 けれど、ここで安心してしまったのが間違いだった。きっとさっきのあれも、たまたまあんな態勢になってしまっただけで。そんな風に思ってしまった。
 問題を解くペンの動きは快調で、ただ目の前の問題をこなすことに集中していく。
 だから、その時イルファさんが何をやっていたか、さっぱり気が付くことができなかった。
 気が付いていたところで、何かが出来たとは思えないんだけれど。


「あと10分です」


 イルファさんの声に息を呑む俺。やばっ、まだ半分しか解けてない。
 残り時間を確認しようとして顔を上げる。ちなみに、時計は机の右上のところ。ちょっとだけ首を捻れば見える位置に置いてある──はずだったんだけど。
 まず目に飛び込んできたのは、その肌色も眩しいイルファさんの太もも。
 机の淵に腰掛けたイルファさん。何故かスカートの裾が、太ももの上までたくし上げられている。


「どうしました? 残り時間はあと少しですよ」


 続いて視線を上げた先にあったものは、イルファさんの着るブラウスの色。でも、そのボタンがいくつか外されているのはどうしてだろう。


「・・・・・・イルファさん、今日は俺に、勉強を教えに来てくれたんだよね?」


「はい、もちろん」


 イルファさんは笑顔で答えてくれる。
 じゃあさっきからのこの不可解な行動は一体なんなんだろう。イルファさんは、まるでそれが理由だっていうように胸元に手で風を送って。


「はい、終了です」


 結局、そのあとはろくに問題を解くことができなかった。


「貴明さん、半分しか解けていないじゃないですか。もっと真面目にやってくださいませんと」


「ご、ごめん」


 イルファさんに怒られて反射的に謝ってしまうけど。これ、俺が悪いの!?


「単純な計算ミスも多いですし。貴明さん、公式など基本はしっかりできていますが、集中力がやや足りないようですね」


 そう言われると、まあ確かに集中なんてほとんど出来なかった。特に後半。
 と言うか、あの状況で全く気を散さないで問題に集中できる人間がいたら、その方が問題だと思う。
 と、俺は思うんだけど。イルファ先生は先生で、また違った意見を持っているみたいだ。


「これから勉強に集中していただくためにも、貴明さんには一度、しっかりと指導して差し上げる必要がありますね。貴明さん、覚悟はよろしいですか。これからテストが終わるまで、ビシバシいかせていただきますから」


 でもイルファさんの表情は、その口調の重々しさとはまるで正反対に明るくて。
 ではまずは、先生と生徒と言う立場を明確にするためにも、問題を半分しか解けなかった貴明さんにお仕置きを。なんていい始めると、ああ、やっぱり。


「それが・・・・・・目的ですか?」


「な、何のことですか? 私はただ、貴明さんにお勉強をしていただくために」


 慌てる口調。でも、ブラウスのボタンを外す指は止まらない。
 ここまであからさまだと、かえって落ち着いてしまうというか諦めがつけやすいというか。


「だって、貴明さんが私のことを先生なんて呼びますから・・・」


 顕わになる胸元。眼鏡越しに見えるイルファさんの瞳は、そのまま溶けてしまいそうなくらい潤んでいる。


「先生と生徒の、禁断の関係。ああっ、燃えるシチュエーションです」


 結局、イルファさんが今回も暴走しているんじゃないかって言う俺の予感は当たっていたことになる。原因はやっぱり、イルファさんに家庭教師を頼んじゃったせいなんだろうか。
 せめて、珊瑚ちゃんと瑠璃ちゃんに同席してもらえばよかった。
 それでも、最後に、藁にもすがるつもりで抵抗する。実際の問題として、このせいでテストの点数が悪かったりしたら言い訳のしようがなくなってしまう。


「い、イルファさん。落ち着こう? 今日は勉強のためにイルファさんには来てもらったわけだしさ。イルファさんへのお礼は、テストが終わったらゆっくりとさせてもらうから」


「ご安心ください。勉強の方も、しっかりとお教えいたしますから。大丈夫。人間、頑張れば一日3時間しか眠らなくても何とかなりますよ」


 こ、殺される!? 今になってようやく、雄二があんなに怯えていた理由がわかった気がした。


「それではまず、保健体育のお勉強から始めましょう」


 イルファさんが近づいてくる。
 ああ、俺、テストが終わるまで生きていられるの、か──な・・・・・・





河野貴明


 名前を呼ばれて、初めて気が付いた。
 目の前には先生がいて、俺の手にはテストの答案。


「どうした、貴明。そんなところで突っ立って。そんなに点数が悪かったのがショックだったか?」


 後ろから雄二に声を掛けられて我に返る。あれ、俺、イルファさんに勉強を教えてもらって、イケナイ保健体育が・・・・・・


イルファさん? ああ、お前、イルファさんに勉強教えてもらってたんだっけな。で、点数は、ちっ、いい点取りやがって」


 言われて初めて確認するんだけど、これ、本当に俺の答案なのか心配になるくらい点数が良い。小牧さんの答案と間違えてないよな?


「お前、大丈夫か? テストの間も、ボーっとしてやがったし」


「ああ、うん」


 と一応返事はしてみたものの。大丈夫も何も、俺、いつの間にテスト受けてたんだっけ?
 と言うより、ここ何日かの記憶がすっぱりと抜け落ちてしまっている。
 テストを受けたような気もするし、毎朝雄二やこのみたちと一緒に学校に通った覚えもあるんだけど。
 でも・・・・・・そういえば。


「お、おい貴明!? 顔色真っ青だぞ」


「ん──あ、そ、そうか?」


 そういえば、確かに眼鏡をかけたイルファさんに、家で勉強を教わった。そのことは思い出せる。
 思い出せるのに、なんでそれ以上のことを思い出すことが出来ないんだろう。


『さあ、貴明さん。寝ている暇はないですよ。まだまだ、お勉強していただきますからね』


 なぜか、寒気が走った。


「しかしお前は良いよなあ。これから、定期的にイルファさんが勉強教えてくれるんだろ?」


「え、そうなのか?」


「そうなのか、って、違うのかよ。お前、言ってたじゃねえか。しばらくイルファさんに勉強教えてもらおうって。ちくしょー、なんでお前ばっかりそんな美味しい思いしなきゃならんのだ、不公平だ!!」


「お前だってこの間勉強見てもらったんだろ。俺だって成績危ないんだ。イルファさんにお願いしてでも、勉強教えてもらわないと」


 なぜか、取り返しの付かないことを言ってしまったような気がするのは何でだろう。イルファさんに、勉強を教わろうって言うだけなのに。
 カレンダーを見る。来月には期末試験も待っているんだ。イルファさんには、もっとビシビシ勉強を教えてもらえるようお願いしないと。
 きっとイルファさん、今回以上に張り切って勉強を・・・・・・





   終