『そういち君、ふぁい、めひあはれ』
『いやいやいや、ここ、公園だし。パブリックな場所でビスケット口移しというのはちょっと、どうかと思うんですよ』
『ふぁい』
『そんな悲しそうな顔されてもですねダメなものは・・・・・・一回、だけだぞ?』
『ふん』
『けっして俺がやりたいんじゃなくて、あくまでこれはそっちの意思を尊重してだな』
『ん〜ん〜』
『じゃ、じゃあいくぞ!?』


 その後はもう、二人がキスするまであっというまだった。
 男の方が女の子の咥えるビスケットに噛り付いたかと思ったら、一気に口元まで食べきって。
 ちゅ〜〜〜っ・・・・・・
 ・・・・・・す、すごい物をみてしまった。
 思わず出る溜息。買い物途中で休憩に寄っただけの公園で、まさかこんな物に遭遇するなんて。
 日曜の公園は、俺たちの他にも家族連れや子供、それにカップルで賑わっていて。
 そんな中で、あそこまで堂々と、あんなことが出来るなんて。見ていてこっちが照れくさくなる。気のせいか、あたりもなんだか暑くなったような。
 火照った顔で横を向くと、隣に座るイルファさんも、顔を真っ赤にしてカップルのことに見入っている。試しにイルファさんの顔の前で手を振ってみても、全く反応が返ってこない。
 やっぱり、刺激が強いよなあ、あれは。
 見れば二人とも、俺とそんなに変わらない歳に見えるのに。とてもじゃないけど、俺には真似できない。と言うか、真似しろと言われても必死で断る。
 たまに珊瑚ちゃんがやってくる「貴明、あーんして」でさえ、照れくさいのを全身の勇気とか忍耐を総動員して何とかこなしているって言うのに。
 あの二人は外の公園で、しかも何人もの人間に注目を浴びつつしているんだから。俺ならきっと、恥ずかしさと照れくささでこの場から走って逃げ出してるんじゃないだろうか。
 さすがに全く平気と言うわけではないらしく、まるで悶えるように体をくねらせるカップル。
 これだけ周囲から注目を浴びていて全く気が付かないのは、もう完全に自分たちだけの世界に入ってしまって──な、ま、また口にビスケットをっ!?
 俺だけじゃない、周りでカップルに注目をしている何人かの口からも、どよめきの声があがる。イルファさんなんて口に手を当てて「まあ、まあ」なんてうろたえた声をあげて。
 再度口にビスケットを咥える女の子。
 男の方、一応嫌がっているようなそぶりは見せるけど。でも両手はいつの間にか女の子の肩へ。やる気満々じゃないか。
 「いやー困ったな、俺は恥ずかしいから嫌なんだけどこいつがどうしてもって言っても聞かないから仕方なく」とか何とか心の中で思ったりしているに違いない顔つきで、女の子の唇に顔を近づけて行く。
 そして咥えられるビスケット。
 もうちょっとで唇と唇が触れそうだ、と言う瞬間に割れたビスケットからは、まるでその音がここまで聞こえてきそうなくらいで。それだけ、俺もカップルのことを注目してしまっていると言うことなんだろう。
 向こうが見られていることに全く気が付いていないようで本当によかった。
 そして更に、今度は男の方がビスケットを口に・・・
 もうお互いのことしか見えていないモードのカップルに、怖い物など何も無いらしい。恐るべし、バカップルパワー。
 とうとう二人を見続けることに耐え切れず空を仰ぐ。完璧に向こうの雰囲気に中てられて、体が熱い。思わず出る今日2回目の溜息。
 ふと視線を横にずらしてみると、イルファさんはまだカップルのことをじっと見つめていて。
 真剣な表情で、カップルを見るイルファさんの横顔。
 あんな物を見たせいだ。どうしても、イルファさんのその、さくらんぼ色した唇に目が行ってしまう。止めよう止めようと思うのに、ほんの少し視線をそらすだけでいいのに、頭の中では今のカップルの様子が思い浮かんで。
 いくらなんでも、あんな恥ずかしいこと出来ないって。頭の中で、誰かが言った。
 でも、あのカップルの嬉しそうな顔、見ただろ? 耳元で誰かが囁いた。
 思い出すのは、イルファさんとキスした時の、イルファさんの唇の柔らかい感触。
 視線を下ろすと、買い物袋の中には今日の晩御飯の材料と、クッキーの箱。
 な、何でこんな物がっ・・・・・・ああ、さっき買ってきたんだ。
 そもそも俺もイルファさんも、この公園には買い物帰りにたまたま休憩に寄っただけで早く帰らないと珊瑚ちゃんも瑠璃ちゃんも心配するし──
 ・・・でも、イルファさんの口がクッキー咥えてるのも可愛らしいだろうなぁ今だってほら、何か喋っているのも


「貴明さん、貴明さん? どうなさいました、私の顔、じっと見つめて」


「うん、イルファさんの唇が、柔らかそうで可愛いなあって」


「ま、まあ」


 思わず丸くなるイルファさんの唇。やっぱり可愛らしいっ・・・っておれは一体何を


「う、うぁわぁぁっ!? ご、ごめん? 変なこと言っちゃって!」


 い、一体俺は何を言ってるんだ!?
 思わず上げた視線の先には、赤くしたイルファさんの顔。そんなに目を丸くして、俺のことを見ないでください。
 慌てて周囲を見渡すけど、今の俺の叫び声に気が付いた人はいなかったみたいだ。とりあえず一安心。あ、向こうのカップルも、片付け準備に入ってる。
 もう一度イルファさんの方を見る。
 もしかしたらイルファさん、聞かなかったことにしてくれているかもなんて期待したんだけど。やっぱりこっちを見たまま。そう上手くはいかないらしい。
 は、恥ずかしい。


「あの、貴明さん」


「な、なんでしょう!?」


 声が裏返ってる。更に恥ずかしい。
 でもイルファさんが次に言ってきたことは、そんな恥ずかしさも一瞬で吹き飛ばすくらい衝撃的で。


「貴明さんも・・・その、なさりたいんですか?」


 いくら俺でも、そこで「何を?」と聞くほど察しが悪くはない。それに、イルファさんが顔を赤くしたまま視線を泳がせる先は、さっきのカップルの座っていた場所。
 いいい、いやいやいや、誰がそんなやりたいって、俺が?
 そりゃあ、イルファさんの唇眺めてはいたけど、あのカップル見てたら誰だって、ねえ? 確かにイルファさんの唇は柔らかくて気持ちが良いだとか、イルファさんとこんなこと出来たら凄い幸せな気持ちになれるだろうって思ったりなんかはするけどさ。


「ですが貴明さん、その」


 イルファさんの視線が、俺の膝の上に落ちる。
 つられて俺も下を向くと、何故か手に持っていたのはさっきまで買い物袋の中に入っていたはずの、クッキーの箱。


「何で!?」


 何でこれがここにある? 誰の陰謀!? これじゃあまるで、俺がイルファさんとあんなことしたくて無意識のうちに袋から出したみたいじゃないか。


「た、貴明さんがそうご希望なのでしたら・・・」


 ま、待ってくださいイルファさん、落ち着いて。
 さっきのカップルを見たでしょ? あんな恥ずかしいこと、絶対に


「貴明さんは、私とクッキーを食べたくは無いとおっしゃるんですか」


「いや、だからそんな悲しそうな顔されても。別に、イルファさんとそうするのが嫌だっていうんじゃなくて」


「では、食べてくださるんですね?」


 なんだかもう、クッキーを食べなきゃいけないようになってしまったような。
 だってほら、イルファさん。俺の手からクッキーの箱を受け取ると、嬉しそうに袋を開け始めて。
 ここまでイルファさんがやる気なのに、これをどうやって断れと?


「それでは貴明さん、ふぁい、めひあがれ」


 イルファさん、箱からクッキーを一枚取り出すと、躊躇いもせず口に咥えて。
 イルファさんの口元で、揺れるクッキー。バニラクッキーだ。
 それを「ん〜」なんて俺の方に突き出して。
 お、落ち着け? そうだ、いつもしているちゅーだと思えばいいんだ。それならいつも挨拶代わりにしてるんだし、何を恥ずかしがることがあるでもイルファさんの唇、なんだかいつもよりも色っぽく見えるような・・・・・・
 え、ええいぃっ!!
 イルファさんの肩を抱くと、そのままクッキーの端を齧る。気合を入れた割には、俺の口を付けたのは縁の部分だったみたいで。
 粉っぽい音を立ててクッキーは、俺とイルファさんの唇の真ん中で割れてしまう。
 「あ」なんて間抜けな声をあげて、気が付いたときにはクッキーの半分は俺の口の中。
 俺とイルファさんの唇が触れる前にクッキーは割れてしまって、俺もイルファさんの唇から離れてしまう。
 なんだか、凄く寂しいような、勿体無いような気持ちになった。
 口の中で租借するクッキーに、俺とイルファさんとの間を邪魔されたような。


「なんだか、残念だったねイルファさ、ん?」


 けれどイルファさんはそのまま、半分になったクッキーを咥え続けていて。ちょっと困った顔。
 そんなイルファさんに俺が混乱していると、自分が咥えているクッキーをちょんちょん、と指差して。
 もしかして、そっちも?
 満足そうに頷くイルファさん。よくよく考えてみれば、イルファさん物を食べられないんだから、結局全部俺が食べなきゃいけない訳で。
 イルファさんが咥えるクッキー。今度は大きさも、さっきの半分。齧れば、すぐにでもイルファさんの唇に触れるだろう。


「じゃ、じゃあ、いくよ?」


 あらためて声をかける。そういえば、さっきこれを言うのを忘れてたな。


「いただきます」


 イルファさんの咥えるクッキーを齧る。
 そのまま口の中に含んで行くと、俺の唇に触れた柔らかい感触。
 俺はイルファさんの肩を抱く腕に力を込めて。イルファさんも、俺のことを強く抱きしめてくれた。
 クッキーが全部、口の中に入っても。二人とも唇を離そうとはしないで。
 むしろ口の中のクッキーのせいで、これよりもイルファさんとキスできないことのほうが勿体無くなる。
 そのまま、どれくらいの間イルファさんとキスし続けていたんだろう。俺の方から唇を離したのは、単に口の中のビスケットがふやけてきてしまったからで。
 そのまま噛んで飲み込んでしまう。
 あ、イルファさんもクッキーを咥えていたんだから、これも一種の間接キスになるんだろうか。そう考えたら、とたんに照れくさくなってきた。


「あの、いかがでしたか?」


「う、うん、美味しかった・・・・・・それに、柔らかかったし」


 真っ赤になるイルファさん。きっと俺も似たようなものだろう。
 しかしこれは、ヤバイな、はまってしまいそうだ。口移しで物を食べるのが、こんなに気持ちが良いなんて。あのカップルの気持ちも、これならわかる。
 するとイルファさん、箱からもう一枚クッキーを取り出して。今度は、俺が?
 ま、まあ、さっきのカップルもやってたしね。仕方ないよな。
 イルファさんからクッキーを受け取って、それを口に咥える・・・前にちょっと考え込む。


「あの・・・どうかなさいました?」


 あ、いや、したくなくなったわけじゃないんだけど。
 ただ、ちょっとさ。
 手に持ったクッキー。それを半分に割って。更に半分にして。それを口に咥える。ほとんど唇の先に乗っているような感じで。
 目を丸くするイルファさん。だってこうすれば、その、すぐちゅーが出来るし。それに、クッキーに邪魔されずにイルファさんとし続けられる、からさ。
 俺が何をしたいのか、イルファさんもわかってくれたみたいで。
 クスクスと笑いながら、俺の方へ顔を近づけて来てくれる。
 お互いに目を瞑っているせいで顔は見えないけど、見えないからこそ、唇同士が触れているのを強く感じることができる。
 試しに、舌でイルファさんの口の中にクッキーを押し込んでみた。
 イルファさん、それをまるでイヤイヤするみたいにまた舌で俺の口の中に戻してきて。それが楽しくてまた意地悪しようとすると、今度はクッキーじゃなくて、イルファさんの舌に触ってしまう。
 耳に響くお互いの舌を舐めあう音が、ちょっとだけいやらしい。
 クッキーはもう、とっくに口の中でふやけてポロポロに崩れてしまったけど。お互い、十分満足するくらいそれぞれの唇を味わって、ようやく体を離すことにした。


「え、えーと、なんて言うか・・・ごちそうさま」


「お粗末さまでした。貴明さん、私の唇、美味しかったですか?」


 そ、それはもう。美味しすぎてお腹一杯で。


「ありがとうございます。私も貴明さんの、堪能させていただきました。これがいわゆる、舌の上で
とろける、と言うのでしょうか」

 それはちょっと違うと思うけど、イルファさんが喜んでくれたのならまあいいか。いいことにしよう。
 それで、イルファさん。何を、してるの?


「貴明さん。デザートに、もう一つクッキーをいかがですか」


 ・・・ま、まあ、折角イルファさんが咥えているクッキー、無駄にしちゃ悪いし。
 イルファさんの肩に手を置く。目の前にはもう、目を瞑って俺のことを待ってくれているイルファさんの顔。
 デザートのクッキーも、やっぱり溶けてしまいそうなくらい甘かった。




「買い物、時間かかっちゃったね。珊瑚ちゃんたち心配してなきゃいいけど」


 公園からの帰り道。
 でもイルファさんは、俺が声をかけてもどこか上の空で。
 俺の手には晩御飯の材料の入った買い物袋と、それに中身が半分くらい無くなったクッキーの箱。
 二人とももう止まんなくなっちゃって、気が付いた時には・・・・・・う、うぅぅぅ。
 気が付いた時には、俺たちの周りに出来ている人だかり。その中にはさっきのカップルまで混じっていて。
 思い出すだけで恥ずかしさで死にたくなる。まさか、あんなに人に見られていたなんて。
 逃げるように公園から飛び出して。イルファさんなんか半分ブレーカーが落ちかけてちゃって、手をつないでなかったら、今頃公園でフリーズしてたんじゃないだろうか。
 今も、まるでのぼせたみたいに焦点の合わない目をして


「貴明さん」


 急に名前を呼ばれて、慌てて視線をそらす。顔を見てたこと、わかったかな。


「貴明さんは、さっきの・・・その、どうでしたか? クッキーのお味は」


「え!? あー、うん。とっても美味しかったよ・・・・・・柔らかくて」


 自分でも一体何を言っているのかわからなくなってきた。イルファさんなんて顔を真っ赤にしちゃって。


「あの、ではよろしければ、マンションに帰りましたらまた、クッキーの方ご用意させていただきた
いのですが」


 イルファさんのその一言で、我慢の限界はあっさりと超えてしまう。
 慌ててあたりを見回しても、人影は、ない。


「い、イルファさん!」


 俺はイルファさんに向き合うと。
 何も咥えていないイルファさんの唇から、クッキーを一枚、口移しで食べさせてもらう。





 終