夕飯の準備と洗濯物と
お昼も過ぎて。
そろそろ瑠璃様に珊瑚様、それに、貴明さんが帰ってくる時間。
今日のお夕食は、いつも行く八百屋さんに良いおナスが売っていましたし、マーボーナスにしましょうか。それだけではお口も飽きてしまいますし、さっぱりとした冬瓜のスープも一緒に。副菜にもう一品、中華風冷奴もお付けして。
鼻唄を歌いながら、買い物カゴの中から出した野菜を洗っていく。
脱衣所の奥からは、さっき回し始めた洗濯機がまるで伴奏するように音を立てている。
ニンジンに付いた泥を丁寧に洗い落としながら、夕飯の時のことを考える。
瑠璃様は褒めてくださいますでしょうか。家庭用のコンロでは、どうしても火力が低くなってしまいますし。
珊瑚様はあまり辛いお料理が得意ではありませんし、調味料の使い方を気をつけて。
貴明さん、どれくらいお召し上がりになりますでしょうか。おナス、もう少し用意した方が良かったかも。
自分の料理を食べてくれた人が、喜んでくれることを考えながら準備に取り掛かる。鼻歌は、いつの間にか体でリズムを取るようになってきて。
だからそれも、けして手を抜いていたせいではなくて。
つい3人のことを考えていると、野菜を洗っていた時のまま水道の蛇口を閉め忘れてしまって。水につけていたナスがボウルの外へ流れてしまいそうになる。
「あ、いけな──
蛇口を閉めようと、慌てて伸ばした手は蛇口のレバーではなく水道の先に触れてしまって。
「ひゃっ、ひゃぁぁぁ・・・・・・
学校が終わって、いつものように俺は珊瑚ちゃん瑠璃ちゃんと一緒に、珊瑚ちゃんのマンションへと帰ってくる。
玄関の扉を開けて、真っ先に中に駆け込んでいくのが珊瑚ちゃんで、その次が瑠璃ちゃん。一番最後に俺の順番で中に入って行った。
中に入って漂ってきたのが、食欲をそそるような辛い匂い。きっと今日の晩御マーボー豆腐に違いない。
「イルファ、ただいまー」
「イルファさん、ただいま」
ただ今日は中の様子がおかしい。いつもなら俺たちが帰ってきたところで、イルファさんが玄関まで迎えに来てくれるのに。
リビングの方から物音はするから、いない訳じゃ無さそうなんだけど。料理か何かで、手でも放せないんだろうか。
「いっちゃん、どうしたん?」
俺たちより一足先に中に入って行く珊瑚ちゃん。
「さ、珊瑚様!? 少し、少しお待ちください!」
けれど中からは、慌てふためいたようなイルファさんの声が聞こえてきて。
「うわぁー、いっちゃんすごいなー。趣味?」
「いえ、けして趣味などでは! こ、これには深いわけが」
はしゃぐ珊瑚ちゃん。
俺と瑠璃ちゃんは目を合わせて『なんかあったん?』『いや、わからない』アメリカ人みたいな仕草で肩を竦めあう。
「イルファさん、何かあったの?」
「あ、た、貴明さんも、まだ心の準備が──
イルファさんの制止の声が聞こえたのは、俺がリビングの扉をくぐったのとほぼ同時だった。
リビングの中は、イルファさんが慌てる様な特に変わった様子は無くて。
テーブルの上には、山盛りのマーボーナス。ああ、この良い匂いはこれの香りだったんだ。
夕飯の献立が並んでいて。
そして今度は、イルファさんの声のするキッチンの方に目を移す。
こちらも、パッと見には別に変な部分は見当たらない。イルファさんが、お鍋を持ったまま右往左往しているくらいだ。
そう、パッと見ただけなら。
「え、えっと・・・イルファさん? どうしたの、その格好」
ちゃんと見ていれば、おかしなところ。いや、おかしな格好のことはすぐわかった。ただ脳の方がそのことをなかなか認識してくれなかっただけで。
キッチンの中では、裸のイルファさんが夕飯の支度をしていて。
正確には裸じゃなくて。いつもイルファさんが料理をするときに付ける、エプロン”だけ”を身に着けて。
イルファさんがキッチンを歩くたびにその裾の部分がひらひらと舞い上がって、もう、ちょっとで、その中が見えそうっ・・・・・・
瑠璃ちゃんに頭を叩かれた。
「何いやらしい目つきしとんのや! イルファも!! なに家の中裸で歩いてるの」
「いっちゃんせくしーやなぁ。悩殺?」
「さんちゃんは黙っといて・・・」
「裸じゃありません!」
必死に反論するイルファさん。
確かにイルファさん、エプロンはしてるけれど。
むしろその格好じゃ、裸でいるよりもなんと言うか、目のやり場に困ると言うか。
「違います! ほら、ちゃんとご覧になってください」
と、後ろを振り向くイルファさん。あまりに急に振り向くものだから、視線を逸らすことも、目を隠すことも間に合わずに。
けして、見たくて見た訳じゃないからな。
けれど俺の目に飛び込んできた物は、イルファさんの可愛らしいお尻ではなくて。
「下着?」
「はい」
エプロンの下には、白のショーツとブラ。
が、がっかりなんて、してないからな。
と、最初は下着だけでいたのですが。とイルファさん。
「さすがに皆様の帰りを、下着だけでお迎えするわけには参りませんから」
一応は、考えてその格好をしてたらしいんだけど。
でも、それじゃああんまり意味ないんじゃないかな・・・
俺が「ねえ」と振り向くと、瑠璃ちゃんも不承不承といった風に頷いてくれた。
だって、もう一度、俺たちの方を向くイルファさん。いくらその下に下着を付けているって言われても、エプロンの上からじゃそんなことはわからないし。
今にもその中が見えてしまいそうなエプロンの裾とか。却ってその下のことを想像してしまいそうな胸の部分だとか。
今ここで、イルファさんがお辞儀なんてしちゃったら、一体エプロンはどんなことになってしまうのだろう! なんて考えが、いけないいけないとは思いつつ頭に浮かんでしまう。
恐るべし、裸エプロ──
思いっきり、瑠璃ちゃんに足を踏まれた。
「イルファーっ!! このアホが変な気起こす前に、さっさと服着て来ぃ!」
「た、貴明さん大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄ろうとするイルファさんに、何でも無いからと手で制する。本当は悲鳴もあげられないくらい痛いんだけど。
それよりも、瑠璃ちゃんの白い目が痛い。
「あの、私でしたら構いませんので。その、多少はやはり恥ずかしいですが、貴明さんでしたら私・・・あ、下着も脱いだ方がよろしければそういたしま──ひっ!?」
瑠璃ちゃんに睨まれて、今度はイルファさんまで身を竦ませる。
そろそろ瑠璃ちゃんの我慢も限界っぽい。
「あー、イルファさん。気持ちはありがたいんだけど。やっぱり落ち着かないしさ、いつもの服に着替えてきて欲しいんだけど」
と、申し訳無さそうな顔をするイルファさん。
「着替えたいのはやまやまなのですが、実は服を全て洗濯してしまっておりまして」
イルファさんの視線の先には洗濯機置き場。そういえば、さっきから洗濯機の回る音が。
「今日はお洗濯物も少なかったですし、良い機会でしたので一度きちんと糊付けからと思ったのですが・・・着ていた服まで、お夕食の準備中に汚してしまって。まさかお出かけ用のお洋服で家事はできませんし」
それで考えた結果が、この裸エプロン(みたいな)格好らしいんだけど。
「もう1時間もすれば洗濯も終わりますし、そうすればすぐに着替えますので」
あと1時間か・・・ま、まあ、1時間くらいだったら何とか我慢することも出来るかな? 何の我慢かはわからないけど。
でも、他に服が無いって言うんじゃ仕方ないし。
ん、まてよ?
「イルファさん、珊瑚ちゃんか瑠璃ちゃんの服を着れば良いんじゃないの? 3人とも、身長だって同じくらいだしさ」
どう? って、瑠璃ちゃんをみる。瑠璃ちゃんと珊瑚ちゃんさえ嫌でなかったら、いいアイデアだと思うんだけど。
「まあ、仕方ないやろ。こんな格好で家の中うろうろされるよりはましやし」
「じゃ、うち服とってくるな。 なーなーいっちゃん、どの服着たい?」
「あ、あの珊瑚様」
洋服を取りに行こうとする珊瑚ちゃんを、イルファさんが引き止める。
「お二人のお申し出は嬉しいのですが」
「いっちゃん、遠慮することないよー」
「い、いえ、遠慮しているわけではなくて、その、実は先ほど、瑠璃様のお洋服をお借りしようとしたのですが」
「なんだ、そのまま来てればよかったのに。そんな破廉恥な格好せんでも」
はい、ですが。とイルファさん。はたしてこの先を言って良いのでしょうか、なんて表情で固まってしまう。
「確かに基本的なサイズに問題は無かったのですが、その、部分的にサイズの足りない部分がございまして・・・む、無理に着ることができなかったわけではないのですが」
首を傾げる。
部分的に?
イルファさんの体を、足の先から眺めていく。身長は同じくらいだし、手や足の長さがイルファさんと瑠璃ちゃんでそんなに違うようなことも無いと思うんだけど。
そして目に入った、エプロンで覆われた、イルファさんの二つの膨らみ。
「あ゛ーっ!!」
「貴明、どこ見とるんや!」
瑠璃ちゃんに、また、思いっきり足を踏まれた。それどころか、珊瑚ちゃんまで俺のことを睨んできて。
俺!? 俺のせいなの!?
けれど確かに理解できた。
瑠璃ちゃんの服を着るイルファさんは、きっと今以上に目のやり場に困ることになっていただろう。まして珊瑚ちゃんの服だったりした日には、俺は一体どうなってしまっていたんだろう。
「仕方ない。そんな格好でうろつかれるのは嫌やけど、あと1時間我慢したるわ」
「はい、申し訳ございません」
結局、洗濯が終わるまではイルファさん、今のままエプロンだけの格好でいることになって。困ったような残念なような・・・・・・ちょっとだけほっとしたような。
「あ」
「さんちゃん、どうしたん?」
「いっちゃん、貴明の服だったら着れるんとちがう?」
「大変お騒がせいたしました」
結局、目の前には俺の服を着たイルファさん。
さすがにズボンの裾やスウェットの袖の部分が余ってしまったけれど、それ以外は特に問題なく着ることが出来てるみたいだ。
まあ、そうだよな。イルファさんと俺とじゃ、そもそも体格が違う訳だし。
いや、別に、着ることが出来くったって、何がどうなる訳でもないけれど。
「あの、貴明さん。私、どこかおかしいでしょうか。先ほどからじっとご覧になられていますが」
「え、あ、いやー、いつも自分で着ている服でも、イルファさんが着ると随分と雰囲気が変わるなーと思ってさ」
イルファさんに聞かれて、慌ててそう答える。
イルファさんが着ただけで、俺の服とは思えないくらい雰囲気が変わるのは確かだし。嘘は言ってないよな、嘘は。
「いっちゃん、似合っとるよ。貴明と一緒やー」
「そう、ですか?」
「似合ってますか?」なんて言って自分の様子を見るイルファさんに、ちょっとだけ良心が痛んでしまったのも確かだけど。
「ほら、イルファ。着替えたんならさっさと夕飯の支度、済ませてしまうで。服も乾いたら、アイロン掛け手伝うから」
「は、はい」
そうしてキッチンに向かう瑠璃ちゃんとイルファさん。
まあ、いろいろあったけど。ようやく一件落着かな。珊瑚ちゃんも手伝いたいのか、一緒にキッチンについていった。
一人残ったリビング。テーブルの上には、少し冷めてしまったのが勿体無いマーボーナスと、さっきまでイルファさんが付けていた・・・エプロン。
料理の続きをするのなら、これが無いと拙い、よな。い、イルファさーん。エプロン、忘れてるよ・・・・・・
「あの、貴明さん」
「ち、違うんだなにもやましいことなんか考えてないし俺はただこれをイルファさんに渡そうと思っただけで」
キッチンからひょっこり戻ってきたイルファさん。視線は、俺の手に握られたエプロンに。
「あの・・・貴明さん」
「イルファさん料理するんだったらエプロン必要だよね良かったなー始まる前に渡すことができて」
けれどイルファさん。俺の必死の弁解にもかかわらず顔を赤く染めて。
キッチンの方を向いて、瑠璃ちゃんも珊瑚ちゃんもこっちに来ないことを確認すると。そっと、俺の方に近寄ってくる。
「は、はい、イルファさん。エプロン」
「ありがとうございます」
俺は慌ててイルファさんにエプロンを渡して。でもイルファさん、エプロンを受け取った後も、俺の耳元に顔を近づけて。
「二人っきりの時でしたら」
「い、イルファさん!?」
ありえない言葉に俺が声をあげると。そのころにはイルファさん、もうキッチンのところまで向かってしまっていて。
くるりと振り向くと。イルファさん、ちょっとだけ照れた表情で。
「今度は、エプロンだけで」
終