[うたわれるものSS]


 薄暗い、おそらく人工の建築物の中。


 雰囲気としては病院、研究所。そういった造りの、どこか人を寄せ付けようとしない潔癖さを持った無味無感動な廊下、そして部屋。だがその建物も長年にわたり放置され続けてきたのか、かつての堅牢さは窺い知ることもできない。


 床には数センチにはなろうかと言う埃が堆積し、裂けた壁からは土砂が流出している。いたるところに底を覗くことのできないような深い割れ目が口を開いている様は、すでにここが捨てられた場所であると言うことを、まざまざとこちらに知らしめてくる。


 ただ、そのような場所であるにもかかわらず一箇所だけ、部屋の中から光が漏れている場所がある。それも自然光などではなく人工の、青白い明かりが、だ。


 このような朽ち果てた場所で何が光を放っているのか。部屋の中を見てみれば、一つのディスプレイが光を映していた。どこから電源が供給されているかは知る由もないが、唯一つだけ、そのディスプレイだけがたよりなさげに、かつてのこの場所の隆盛を示しているかのようだった。





「ザ── ザッ、ザ───ザッ、ザ──、─かし─ザ──時中監視されていると言うのもあまり気持ちのいいものではないですね」


 自分以外誰もいない部屋で、ぼやくような口調で男が言った。


 異様な男である。


 体つきはしっかりしているが、人目を付くほど身長が高いわけではない。服装は入院患者が着るような、ゆったりとした前合せの上着。そしてそれと同色のズボン。瞳には理性的な光が宿り、今不平を言った口元にも、この男がそれを本気で憤慨しているわけではないと示すかのように苦笑が浮かべられている。どこにも異様と評すべき部分はない。


 唯一つ、その顔に付けている面を除けば。


 まるで鬼の表情を模った様な面をこの男は付けている。周囲が未来的な調度品、といってもそれはこの男の趣味などを表すようなものではなく、単にこの部屋に以前からあったという機材の類だが──に囲まれていてはその異様さもより一層際立つ。


 だがそのことを全く気にしていないのか、それとも異様とはそもそも思ってもいないのか、男の立ち振る舞いは実に自然である。


『君の言いたいことは判るが、これも君の体調を管理するためには必要なことだ。いくら健康に見えたとしても、君は長年に渡って氷の中で眠っていたんだ。いつどのような症状に襲われるか判らない。申し訳ないが我慢してくれ』


 答えるその声も異様。それは人ではなく、人の形をした黒い影。時々その影の輪郭は小刻みに揺れる。まるで、水面に映った虚像のように。


 ただ男に対するその声は、この影が本当に男に対して申し訳ないと思っているようで、やや沈んでいる。


「まあ、仕方が無いですね。助けてもらったうえ治療までしてもらっている身で、そうわがままばかりも言ってはいられませんし」


『そう言ってもらえるとこちらも助かる・・・そうだ。君のいた時代には自分や、家族のことを映像として記録を残す習慣があったのだろう? これもその一種だとでも思っていてはもらえないかね? 希望するのなら後でデータを渡すこともできるが』


「映像って、ビデオですか? けれどあれは、一日中撮り続けるようなものではなくて・・・それに今の私に家族といっても」


「アノ、お茶がはいりましタ」


 軽い空気の圧搾音とともに扉が開く。その奥から、トレイにカップと軽食を載せた少女が部屋に入ってくる。


 湯気の立つお茶を持って男たちの方へやってくる可愛らしい少女。朱色の、男が着るものとよく似た材質のゆったりとした服を着て、首には、この少女には似つかわしくないほどの大きさの、無骨な首輪めいたアクセサリ。それに紐で括りつけられた鈴が、彼女が歩くたびに涼やかな音色を響かせる。


 ただ、その少女の長い黒髪から覗く耳。ただそれだけが、やはりこの少女も普通の人間ではないことを如実に示している。それは獣じみた大きな耳。髪の色より更に深い色の黒毛に覆われたそれが、人と同じ場所についている。


「お菓子も作ってみたんでス。お口に合うといいのですガ」


「・・・この子がいたか」


 自分の前にトレイの上の物を置いていく彼女を、男は面の奥にある瞳で、どこか感心した風に見つめる。


「あの、わたしの顔に何かついていますカ?」


「あ、いや・・・そうだミコト。あそこにカメラが見えるだろう? あのカメラに向かって、いろいろやってもらいたいんだけど」


「え、いろいろですカ? でも、いろいろと言われても何をしたラ・・・」


 突然男にそう言われ、彼女は困ったように目を伏せてしまう。


「とにかく何でもいいんだ。そうだな・・・たとえば踊りをしたり、歌を歌ったり」


「歌、でスか!?」


 更に目を伏せて考え込んでしまう彼女。


「そうだな、歌なんかはいいかもしれないな。それじゃあミコト、歌ってみてくれないか」


「え、ええっと、あノ・・・」


 男に促され監視用のカメラの前に立たされると、とうとう首まで真っ赤に火照らせて俯いてしまった。それでも気は恥ずかしげに顔を上げると、おずおずと唇を開き伏目がちにカメラを覗く。


────────・───・・・─────────────


 彼女の口から漏れる歌声が、そう広くもない部屋中に響く。はじめは遠慮がちにうたっていた彼女もだんだんと歌うことに集中し、その声がより一層優しげに聞こえる。


 彼女の歌う歌は子守唄か。胸の前で手を組み、目を閉じて歌われる彼女の歌を、男と影はまるで聞き惚れているかのように耳を傾ける。


 彼女の首の鈴がリン──となったのを最後に、部屋が静寂に包まれた。そしてパチパチパチと拍手の音。


「あ、あの、変じゃなかったですカ?」


「いや、いい歌だったよ。子守唄のようだけど、どこで覚えたんだ?」


「えっト、いつの間にか覚えていテ・・・多分、博士が歌ってくれた歌だト・・・」


 そういって彼女は影のほうを見るが、表情を読むことのできない影からは、そう言われたことにどういう反応を示しているか伺うことはできない。


『私には3510号のように歌の才能はないよ。おそらく研究所のほかの誰かが歌っていたのを聞いて覚えたのだろう・・・おっと、そろそろ時間だ。では失礼させていただくよ』


 けれど、影はまるで照れたのを必死で隠すかのようにその場から消えようとする。


「あ、ミズシマさん。今日のこのデータですけど、やっぱりいただけませんか。あとでもう一度、この子の歌声を聞いてみたいですから」


「だ、だめでス。恥ずかしいでス」


 再度表情を赤らめて俯く彼女。そんな彼女を見る、影の表情のない顔がほころんだ気がした。


『ああ、わかった。後で3510号に持たせよう。だがアイスマン。そのようなことをしなくても、この子に直接歌って──ザッ、─ザ──ないの──』


「ザッ─士、イジワルで──ザ───ザ─―───




 ディスプレイにノイズが入る。画像は安定を失って、幾本もの走査線がちらつき始めた。既に何が映し出されているのかわからないほど乱れてしまった画面の中、最後にカメラが捕らえていたものは微笑を浮かべる男の顔だった。


 あの三人を単なる家族・・・そう、家族だ。夫婦、親子、兄弟。我々が日頃思い浮かべる「家族」という定義とはかけ離れた関係であろうことは容易に想像できる。


 だがそれでも、三人のお互いを慈しみあうその姿。会話の端々に見ることのできる紛れもない愛情は、たとえいびつな形であろうとも、彼らが間違いなく「家族」であることを、こちらに示していた。


 

「────、ザッザ───ザ─ちょっと─ザッ、ザ──った。待っただ。えーっと、ここにこうきて、そこに飛車が来るわけだから・・・よし!」


『─────』


「なに、いくら考えても無駄だからやめろ? そんなことはない。お前に将棋を教えたのはこの私なんだからな。4・5銀。さあ、これでどうだ!」 


 先ほどと同じ場所。人の心を和ませるような調度品のない、厚いコンクリートで囲まれた実験室のような部屋。カメラは、鬼の面の男が一人でぶつぶつと言いながら紙の切れ端を(おそらくこれが将棋の駒ということなのだろう)動かしているところを撮影している。


『─── ──────』


「7・7、桂馬成り? なっ・・・お、王手飛車角取り・・・ば、馬鹿な・・・・・・」


 一人で将棋を指しているにしては妙に盛り上がりながら、男は腕を組んで板状を俯瞰する。素人目にも男の旗色が悪いのは良く判る。すでに駒の大半を相手に取られ、今も男の王将は相手に詰められようとしている。


『── ─── ───』


「私が弱いだって!? これは私が弱いんじゃなくムツミが強すぎるんだ! この間ルールを教えたばかりなのにこの強さは異常だぞ・・・・・・参った、参った。もうこれ以上考えても勝てそうにない」


『──────────────────』


「っあ!! 判った判った、お前が嬉しいのは判ったからそれをやめろ!」


 男はまるで耳元で叫ばれでもしたかのように、耳を押さえその場にしゃがみ込んでしまう。映像からは何が起きたのかは判らないが、男はよろよろと、体を投げ出すように椅子の上に座った。


「───」


「もう一度だって? 勘弁してくれ・・・今朝からこれで何回目だと思っているんだ」


『─ ─ ─ ─』


「あーもう。今度またやってあげるから泣かないでくれ」


 男は、そのまま頭を抱え込んでしまった。ついた溜息が画面のこちらまで届きそうなほど深く息を吐く。まるで泣く子供をあやすかのようなその口調には、ありありとした疲れの響きを見て取ることができる。まるで、妹に付き合う兄のような、自らの子どもを相手にする父親のような。


『ザッ・ザザ・・・ザ・ウレ・・・シ・・イ』


 突然スピーカーから雑音が流れた。だがそれは、先ほどのような映像そのものにノイズが走ったのではなく、ディスプレイの中の、男のいる部屋のスピーカーから聞こえてきた。


 雑音にかき消されひどく聞き取りづらいが、確かにそのスピーカーからは女の子の喜ぶ声が聞こえていた。たった一言、それも機械を通して聞こえてきた声だというのに、スピーカーの向こうにいる女の子の喜びようが伝わってくる。


「ムツミが喜んでくれてわたしも嬉しいよ・・・」


 スピーカーはそれきり何の音も発しようとはしない。苦笑混じりに、男がスピーカーの向こうにいる女の子にだろうか。声を投げかける。


「検査のお時間でス」


『─────────────────────』


「嬉しいのは判るから頭の中ではしゃぐな!!」


 部屋に、先ほど歌を歌っていた少女が入ってきた。男に用があるようだが、男がわめきながら耳を押さえている光景にやや戸惑っているようだ。


「何か、あったんですカ?」


 心配そうに男に駆け寄る少女。肩を抱かれると、ようやく少女が部屋に入ってきたことに気が付いたのか。男がばつが悪そうに、その面の下の顔を歪める。


「気分が悪いようでしたら博士に言っテ」


「いや、なんでもない。心配してくれてありがとうミコト。ちょっとゲームに盛り上がってしまってね」


「でモ・・・」


 自分でも苦しい言い訳と思っているのか男の弁解は歯切れが悪い。少女は依然気遣うような表情で男のことを見ている。その男を見つめる瞳に浮かぶ憂いから、少女が本当に男のことを心配していることが伺えた。


「本当になんでも無いから。ほら、検査の時間なのだろう? 早く行かないとミズシマさんが待っているぞ」


 まるで何でもないことを少女にアピールするかのように、男の口調が明るく大きくなる。それでもまだ少女は表情を曇らせていたが、男はそれ以上特に何も言わず、ことさら大きな身振りで広げられていた将棋の駒を片付けていた。その、紙に文字を書いて切り抜いただけの将棋の駒が一枚、少女の足元へひらひらと飛んでいく。


「あの、落ちましたヨ」


 足元に落ちたそれを拾うと不思議そうな表情で見つめ、少女は他の駒を集めている男のところへと持っていった。


「ああ、ありがとう」


 少女の手から駒を受け取り、あたりに散らかった駒を片付けていく。紙製の駒をまとめていくその手を、少女はじっと見詰めている。その視線を感じ取ったのか、男はひどくやりにくそうだ。


「ミコトもやってみるかい?」


「エ、でも、難しくないですカ?」


「いきなり将棋は無理かもしれないが、オセロなら大丈夫だろう。おいで、ルールを教えてあげよう」


 将棋を片付け、今度は同じく紙でできたオセロと思わしきコマを机の上に男は広げる。手招きして呼ぶ男に少女は嬉しそうに近寄り、その横に寄り添うように立つと男の説明するそれを一生懸命といった風に聞いている。


 そんな少女は実に嬉しそうだ。まるで、男の横にいるだけで幸せであるかと言うほどに。


 やがて説明が終わったのか、男が少女を自分の向かい側に座らせる。少女の華奢な手が、ぎこちなく黒と白のコマを裏返していく。


「えト・・・」


「ミコト、そんなところに置いていたのでは全部ひっくり返されてしまうぞ」


 少女の返したコマが、男の置いたコマに全て返されていく。


 男は嬉しそうに彼女のコマの色を変えていく。少女は、そんな男が、嬉しそうにする男を見るのが本当に嬉しそうだ。自分が負けたことなど気にも留めず、嬉しそうにする男をみて微笑を浮かべている。


「ミコトもまだまだ練習が必要だな。これから私がみっしりと鍛えてあげよう」


「はイ、よろしくお願いしまス」


『───── ─ ─── ───』


「何、初心者相手に大人気ない? いつも自分に負けてばかりなのにえらそう、だと? それはここのところムツミには負け続きだが・・・だが初めての相手でも本気でぶつかるのこそが礼儀だと」


『─── ───』


「なんだその勝ち誇ったかのような笑みは!」


 一人で喚きたてる男を、少女はニコニコと微笑んだまま、不思議そうに見ている。


『3510号、何をやっているんだ? 彼はまだかね』


 唐突に部屋に声が響く。いつの間にか、画面の中にはいつかの影が立っていた。


「あ!? す、すみませン」


『彼を呼びに行かせていったいどれだけ・・・ほう、オセロか。懐かしいな』


「すいませんミズシマさん。ミコトはちゃんと教えてくれたんですが、私が呼び止めてしまって」


『まあ、そんなに急ぐようなものではないから今回は構わないが。次からは気をつけてくれ』


 シュンとする少女をかばう様に男が影の前に進み出た。影のほうもそう責めるつもりは無いのか、男に二言三言声をかけただけで、それきり机の上のオセロに手を伸ばす。


『君は黒と白どちらをやっていたんだね? 見たところかなり一方的な展開だったようだが』


「あの、わたしが負けてしまっテ。だから今度もっと教えてくれるそうでス」


『ふむ。3510号はあまり数学的思考は得意ではないようだな。アイスマンに教わるまでも無い。いつか暇なとき私が教えてあげよう』


「ザ──ズシマさんもオセロはやるんですか?」


『少しかじった──ザ─ザ──がな。それ───ザッ、ザ─3510号に教えザッ、ザザッ──ザる』


「博士がおし──ザザ──ザ、ザ、──うれしい──ザザザザザザザザザザザザザッ────ツゥゥゥン───────────────




 それきり画面は何も映さなくなった。周囲は元の通りの朽ち果てた壁が残るだけ。


 しかし、かつてこの場所には幸せな家族がいた。今はもうその名残を見ることはできないが、確かにこのディスプレイの中には嬉しそうに語り合う、幸せそうに微笑みあう家族たちがいた。


 彼らがこの先どういった人生を送ったのか、この廃墟からは知ることはできない。だが、あの家族には、あれから先もずっと、あのような幸せそうな笑顔を浮かべ続けていて欲しい。


 ただただ、そう願う。


・・・お2人と一緒にいられて、わたしはとっても幸せでス」




   終