彼女と一緒に過ごす朝

 布団の中から手を伸ばし、目覚まし時計のスイッチをオフにする。


 ・・・・・・ん・・・・・・う。


 あ・・・・・・れ? もう朝か・・・・・・。


 布団に入ってから、まだほんの少ししか立っていないような気がする。
 半分眠ったままの腕をのろのろと動かし、カーテンを開いた。
 まぶしい朝の光が差し込んで、部屋を明るく染める。
 良く晴れた、気持ちのいい朝だった。
 布団越しに日差しのぬくもりが伝わってくる。
 ぴんぽーん


 と、まるでこちらが起きたのに合わせるかのように呼び鈴が鳴る。
 だれだよ、こんな朝っぱらから・・・・・・。


 ぴんぽーん


 再び鳴り響く呼び鈴の音。
 ああ、はいわかりました、今行きますよ。だから、もうちょっとだけ、この朝のまどろみに身をゆだねさせて・・・・・・。
 あまりの日差しの心地よさに、睡魔たちは大張り切りでもう一度眠りの世界へ俺を誘ってゆく。
 呼び鈴の音は鳴り止まないけれど、そのうち親父かお袋が出ることだろう。だからノープロブレム。俺が出て行かないからって、何も問題はない。それに、恨むなら・・・いくら寝ても寝不足な今の季節に言ってやってく・・・・・・ぐぅ。


「貴明さーん」


 窓の外から聞こえてくる声に、片足どころか腰の辺りまで眠りの国に浸かっていた意識が一度に覚醒した。


「貴明さーん、起きていますかー?」


 慌てて窓を開けて部屋の下、玄関を見下ろした。
 こんな朝っぱらから人の名前を大声で呼ばないで欲しい。
 いや、そんな大きな声で呼んでいる訳じゃないけど、万一ご近所に、とくに隣の家の家族に聞かれていたらと思うと、恥ずかしくて外を出歩けなくなる。


「おはようございます、貴明さん」


 窓から身を乗り出したところで、ちょうど俺の部屋を見上げていた彼女と眼が合ってしまった。出来るだけ不機嫌そうな顔を作っていたつもりだけど、彼女にはあまり効果が無かったみたいだ。
 俺の目をみつめたまま、にっこりと彼女は微笑む。
 子供のころから見慣れた笑顔。
 なんだか本気になって怒るのが馬鹿馬鹿しくなって、俺も笑顔で、でも不機嫌そうな表情は崩さないという器用な真似をしながら彼女におはようと言う。


「おはよう、草壁さん


 彼女の名前は草壁優季(くさかべ ゆうき)。小学校のころからの俺の、幼馴染と言えるんだろう、多分。
 同じ中学、そして去年の春から同じ学校に一緒に通っている。
 学校の前の坂道で待ち合わせて、俺と草壁さんそれにこのみと雄二、4人で坂を上っていくのが毎朝の習慣だ。
 だから逆を言えば、草壁さんが朝うちを訪ねてくることなんてそうそうあることじゃない。全く無いわけじゃないけど、うちからだと通学路が離れていて、いつも朝会うのは学校の前の坂道でだ。


「どうしたの、今日は。お袋に何か用事でもあった? あ、ま、まさか!?」


 慌てて時計を見るが、ふぅ、まだ針は7時を回ったばかりだ。遅刻の心配どころか、普段起きる時間よりも30分は早い。
 あれ、何で俺、こんなに早く目覚ましのタイマーをセットしていたんだろう。


「まだ学校のチャイムが鳴るには早い時間ですよ、貴明さん。でも二度寝してしまったのでは、せっかくいつもより早く起きたのが台無しになってしまいます」


 くすくすと笑いながら、草壁さんが俺の顔を眺めている。俺が何に慌てたのかまでお見通しらしい。
 これだから長い付き合いと言うのはやりにくい。まるで自分の行動パターンを全部把握されているみたいじゃないか。
 恥ずかしさに顔が熱くなるのがわかった。


「それに、おば様もおじ様も、今頃は海の向こうの国ですから。お会いしたくてもお会いできません」


 ・・・・・・あ、そうか。


 今日から親父もお袋も出張で家を留守にするから、誰もいないんだった。
 通りでさっきから家の中が静かなはずだ。
 一階からは毎朝聞こえてきた炊事の音や、朝のニュース番組の音が聞こえてこない。
 そのことにあらためて気付かされ、二人とももうこの家にはいないんだな、と言う実感が湧いてきた。


「あの、それで、もし貴明さんがご迷惑じゃなかったらだけど・・・・・・」


 そこまで言うと、なんだか躊躇いがちに目を伏せてしまう。
 いや、これは躊躇っているというよりも、恥ずかしがってもじもじしていると言った様子か。
 だってなんとなく顔も上気しているようだし。


「貴明さん1人じゃ、朝ご飯の用意するのも大変だろうと思って、家からサンドイッチ、持ってきたんですけど・・・・・・貴明さんさえよかったら、一緒に食べませんか」


 そこまで言われてようやく、草壁さんの手に通学カバンのほかにランチボックスが握られていることに気がついた。
 多分あの中にそのサンドイッチが入っているんだろう。


「そのためにわざわざ? もちろん大歓迎だよ。それじゃあちょっと待ってて。今、鍵を開けるから」


「はい」


 嬉しそうな表情をする草壁さんに、窓を閉めてほんの少しだけの別れを告げると、俺は大慌てで一階に降りていく。
 俺のためにわざわざ遠回りしてまで朝飯を届けてくれるなんて。
 朝、早起きしてサンドイッチを作っている草壁さんを想像すると、なんだか面映い気分になる。

 
・・・・・・何を朝から照れているんだ、俺は。

 
いかん、このままじゃ玄関を開けても草壁さんを直視できそうに無い。落ち着け、俺。
 そうだ、サンドイッチの具は何だろう。ハムか、レタスか、ツナか。タマゴサンドがあると嬉しいな。大体の人はハムサンドかタマゴサンドで好きな具が分かれるけど、俺はやっぱりタマゴサンド派だな。
 ハムサンドも悪くないけど。
 そこら辺は心配する必要は無いか。草壁さんとはお互いに好物は良くわかっているし。
 そういえば寝起きなのにずいぶんとお腹もすいているな。昨日は2人とも昼には出かけちゃって、夕飯はスーパーの弁当だったからなぁ。ああいったところの弁当って、けして不味くは無いけれど味気ないんだよなぁ。


 ・・・・・・よし、大分落ち着いた。


 もう一度だけ深呼吸をして、シリンダー錠を回す。

 
「おはようございます貴明さん」


 こちらから扉を開けると、草壁さんはさっきと変らない、いや、さっきよりももっと嬉しそうな表情をしているように見えるのは、俺の気のせいか。


「おはよう草壁さん。でも、おはようならさっきも言ったよね」


「いいえ、窓にいた貴明さんにご挨拶するのと、こうやって玄関でご挨拶するのでは全く別のものになるんです。あ、もちろんいつも坂の下でおはようとご挨拶することも、まったく別のものですよ」


 そんなものなのかなぁ、などとは思うけれど、草壁さんがあんまり嬉しそうに言うものだからそれならそれでいいか、となんとなく納得してしまった。

 
「いつまでも玄関に立ってるのもなんだし、上がってよ。今、顔洗ってくるから、ちょっと待ってて」


「はい、おじゃまします・・・・・・あっ」


 洗面所に向かおうとする俺の後ろで、草壁さんが息を呑むのがわかった。
 慌てて振り返ると草壁さんは、目を伏せて、唇を硬く結び、まるで何かを耐えるように通学カバンを握る手に力を込めている。
 な、なんだ、何が起こった。
 周囲を見渡しても何も変わった所は無い。
 辛そうな瞳で草壁さんが見つめるその先は・・・・・・ま、まさか俺の身に何かっ!?


「・・・・・・貴明さん」


 ごくり・・・・・・。


 自分の唾を飲む音が嫌に耳に響く。


「貴明さんの髪の毛に、凄い寝癖が」
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
 デコピン。


「あっ・・・・・・」


 ぺし、ぺし、ぺし。


 お仕置きとばかりに草壁さんのおでこにデコピンをしてやる。
 デコピンっと言ったって人差し指で軽くはじく程度。身をよじって逃げようとする草壁さんも、なんだか楽しそうだ。


「・・・・・・あっ、あっ、あっ」


 ・・・・・・なんだかオラ、楽しくなってきたぞ。


「貴明さん、貴明さん、お願いですからやめてください」


 やだ、やめない。なんと言ったってこれは、人の事をからかって遊ぶような悪い子にするお仕置きなんだから。
 けして草壁さんの反応を見て楽しんでいるわけじゃないぞ、うん。
 よし、今度は左手も使って左右から挟み撃ち・・・・・・


「タカくん、おはよ〜」


 柚原(ゆずはら)このみ。
 隣に住んでいる一つ年下の幼なじみ。
 このみの家とは家族ぐるみの付き合いがあって、小学校のころから一緒にいる草壁さん以上に、物心つく前から一緒にいることが多かった。
 一人っ子だった俺にとっては、妹みたいなものかな。
 その妹が、物凄く生温かい目で両手にデコピンを作る俺のことを見つめてくれている。


 ・・・・・・やめろ、やめてくれ、そんな瞳で俺のことを見ないでくれ。


「おはようございます、このみちゃん」


「あっ、優季お姉ちゃん、おはよ〜」


 草壁さんが、まるで何も無かったかのようにこのみに声をかけている。
 応えるこのみも元気な声で挨拶をする。
 女って強いな。いまだにデコピンの態勢のまま固まっている俺だけがまるで馬鹿みたいじゃないか。
 いや、じっさい馬鹿丸出しなんだろうけど。


「このみ、何でまたこんな朝早くに?」


 こうなればこんな恥ずべき出来事は無かったことにしてしまうしかない。幸い草壁さんもそれには同意見のようだ。
 まずは当たり障りの無い会話から日常生活への復帰を図っていこう。
 それでとりあえずこのみ、目を細めてこちらを見るのをやめろ。


「あ、えっとね」


 そう言ってこのみの取り出した物は、鍵のついた可愛い猫のキーホルダー。
 どこかで見たことのあるその鍵は、あれ、もしかしてその鍵、うちの家の鍵か?


「おばさんから預かったんだ。留守のあいだタカくんのことお願いしますって。だからタカくんが寝坊しないよう、起こしにきたんだけど」


 お願いしますって・・・・・・あのさ、お袋。
 いつも寝坊して待たされるのは俺の方だって、突っ込んでいいかな。


優季お姉ちゃんの方が先に来ちゃってるんだもん。ちぇ〜、せっかくタカくんの寝顔が見られると思ってたのに」


 ・・・・・・どうせ渡すのなら、草壁さんの方がはるかに適任だろうに。お袋、絶対人選誤ったって。


「貴明さんの寝顔、きっと可愛らしかったでしょうね。もうちょっと遅く来ればよかったかな」


 前言撤回。
 俺の周りには俺のプライバシーに対して配慮を示してくれる人間は存在しないようだ。
 そもそも、一人暮らしの男の家の鍵を他人に預けるなんて何を考えているんだ。俺の身が危ないとは思わないのか、お袋。


「あれ、優希お姉ちゃん。それ、もしかしてサンドイッチ?」


 このみが、草壁さんの手に握られたランチボックスを目ざとく発見する。
 と言うかこのみよ、何で中身も見ずにそれがサンドイッチだと判るんだ?


「ええ。貴明さんの朝ごはんに作ってきたんだけど、たくさんあるからこのみちゃんも一緒に食べませんか?」


「やた〜。それじゃ早く食べよ。二人とも、早く早く〜」


 大喜びでリビングに駆け上がっていく。
 そのサンドイッチは俺の朝飯であり、このみの空腹を満たすための物ではないとわかってるか?


「すぐに支度するから、草壁さんも上がっててよ」


「はい。あ、貴明さん・・・・・・あの、その、ふ、ふたりでデコピンとかしてるの、誰かに見られると恥ずかしいですから・・・・・・あ、で、でも本当に嫌だって言うわけじゃけしてなくて、その、どうせなら誰も来ないところでして欲しいなって。や、やだ私ったら、何を言ってるんだろう」


 早く忘れてください。
 ・・・・・・洗面台の蛇口を捻ると、朝の冷たい水が流れ出す。
 恥をかく原因となった寝癖を、まるで親の仇のようにとかしていく。
 うわ、確かにこれは凄い寝癖だ。
 このまま学校に行っていたら、確実に変なあだ名を奉られているところだっただろう。一人、嬉々としてそのあだ名を付けようとする人間に心当たりがある。


『貴明さんー、飲み物はコーヒーにしますか、紅茶にしますか?』


 部屋に戻って制服に着替えていると、下から草壁さんの声がした。
 よくうちの家に遊びに来る草壁さんの影響で、我が家のティーセットや茶葉の買い置きにはちょっとした物がある。
 普段滅多に使わないくせに、親父にしろお袋にしろ、妙に形から入ろうとするのは一体誰に似たんだろう。おかげで中学生のころ、草壁さんが毎週のように通っては二人にお茶の入れ方を教えると言う妙な時期があった。
 ただ、味の違いがわかるほど繊細な舌をしているわけじゃないけど、ドリップされるコーヒーや、ティーポットから注がれる紅茶からはインスタントじゃけして味わうことの出来ない雰囲気があるのも確かだろう。
 でも俺使い方わからないから、草壁さんが来た時以外埃をかぶっていそうだな。


「どっちでもいいやー。あ、でもどうせなら草壁さんの入れてくれた紅茶がいいかなー」


『はい、用意して置きますねー』


『ねえ優季お姉ちゃん、わたしも淹れてみたいでありますよ〜』


『んー、ごめんねこのみちゃん。今日は私が淹れてあげたい気分なんです』


 良く言った草壁さん
 このみにやらせた日には下手をすると、紅茶色した単なる渋いお湯を飲まされかねない。
 着替えを終えて、カバンを手に取り扉を開ける。


 ・・・・・・ん〜。


 いい香りだ。
 下から紅茶の、多分これはミルクティーだな、ほっとするような香りが漂ってくる。
 階段を下りる足も自然と速くなり、リビングの扉を開けようとする手にも期待に力がこもる。


「さ、どうぞ貴明さん、席について下さい。今お茶を入れますから」


 リビングに射す暖かい朝の日差しの中で、草壁さんがポットをもって笑っていた。
 テーブルの上には色とりどりのサンドイッチが盛られたお皿と、カップが3つ並んでいる。
 思ったとおり美味しそうなサンドイッチだ。このみなんて今にも皿に跳びかかりそうなくらいそわそわしている。
 やっぱりこいつは花よりダンゴなやつだなぁ。


「貴明さんはミルクティー、今日はミルクから入れますか? それとも、紅茶から?」


 そんなこと、決まっている。


「もちろん、紅茶からだよね」


「はい、わかりました」


 嬉しそうに微笑むと、草壁さんは慣れた手つきでティーカップに濃いめの紅茶と、ミルクを注いでいく。
 草壁さんは猫舌で、熱いお茶じゃすぐ飲むことが出来ない。だからいつもミルクティーをいれるときは紅茶から注いで、それからミルクを入れて飲みやすい温度にするのが2人のあいだでの決まりごとだ。
 わざわざ聞かなくても答えは決まっているのに、それでもいつもどちらから入れるか草壁さんが俺に聞いてくるのは、たぶん、そうやっていつもと同じ会話が出来ることを楽しんでくれているからなんだろう。


「じゃあ、いただきます、と」


「いただきま〜す」


「はい、どうぞめしあがれ」


 全員に紅茶が行き渡ったところで一緒に手を合わせる。
 まずはミルクティーを一口。
 うん、美味しい。
 十分に濃く入れられた紅茶が、まだ完全に目覚め切ってない頭をすっきりとさせてくれる。
 そしてメインのサンドイッチに手を伸ばす。
 最初はレタスとトマトのからいってみようか。
 一口頬張ると、シャキシャキとしたレタスのはごたえに、トマトの甘酸っぱい酸味が口の中に広がる。
 空腹感も手伝ってレタストマトサンドを一気に食べ切ってしまうと、紅茶をもう一口。
 胃の中が暖かくなっていくような感覚。
 なんだか幸せな気分だ。


「美味しいよ、草壁さん


 おかげで素直に感想を口に出して言うことができた。
 へたに色々な言葉を使うよりも、美味しいって言うだけの方が、作ってくれた人にその思いを伝えやすいと思うから。


「ありがとうございます。貴明さんにそう言ってもらえると、とっても嬉しいです」


「本当においしい。優季お姉ちゃんのサンドイッチは最高だね〜」


「このみちゃんもありがとう。そんなに一生懸命食べてもらえるなんて、もっと作ってくればよかったかな?」


 このみもよほど草壁さんの作ったサンドイッチが気に入ったんだろう。もう一心不乱という表現が似合いそうなくらい一生懸命お皿に手を伸ばして・・・・・・って、コラ。お前一体一人で幾つ食べる気だ?
 あっ、それは俺が目をつけていたハムサンドだ、取るな、返せ。


「ごちそうさまでした」


 手を合わせてそう言うと、このみはさも満足そうに背伸びをする。
 結局このみ一人に半分以上のサンドイッチを食べられてしまった。
 俺も途中からはまるで競うように食べ始めたんだけど、このみの小さな体のどこにあれだけの量が入るんだろう。不思議だ。


「おそまつさまでした。貴明さん、紅茶をもう一杯いかがですか?」


「あ、うん、もらおうかな。ごちそうさま、美味しかったよ」


「どういたしまして」


 食後の一杯を注いでもらうと、それを持ったままソファへと移動する。
 ソファのある辺りにはベランダからの春の日差しがちょうど当たっていて、ずいぶんと心地よさそうな雰囲気をこちらに見せ付けていた。
 ポカポカと降り注ぐ日差しを体中に浴びて、草壁さんの入れてくれたミルクティーを飲む。学校なんて行くのはやめて、このまま一日中日向ぼっこでもしていたい気分だよ。
 このみなんてもう、テーブルにうつぶせになって、今にも眠りそうなくらい顔をとろけさせているじゃないか。


「おいおい、このみ。寝るなよ、学校に遅れるぞ」


 だからと言って本当に昼寝(この場合は朝寝になるのか?)をはじめる訳にも行かないだろ。


「ん〜、ちょっとだけ・・・・・・。ちょっとだけだよ・・・・・・それに、まだ学校に行く時間じゃないし、だから・・・・・・だいじょうぶ・・・・・・」


 時計を見る。
 7時45分。
 確かに家を出るには、まだ少し時間があるし、少しくらいなら大丈夫か。
 たまには、こんなゆっくりした朝もいいだろうし。


草壁さんも、片付けなら学校から帰ってきた後俺がやっておくから。ゆっくりしてるといいよ・・・・・・草壁さん?」


 あれ?
 つい今までテーブルの上の片付けをやっていた草壁さんの姿が見えない。
 キッチンの奥へ行ったわけじゃないようだし、どこへ行ったんだろう?


「うわっ!?」


 唐突にかかった太ももへの重量に、もう少しで持ったティーカップを落とすところだった。
 慌てて視線を下げてみると、そこには俺の両足に頭をのせて、ソファに横になる草壁さんがいた。


草壁さん・・・・・・」


「それじゃあお言葉に甘えて、ゆっくりさせていただきます」


 まるでいたずらっ子のようにくすくす笑う草壁さんは、そう言うと目を閉じ、寝息を立て始めてしまった。


「あ、ちょっと、草壁さん


 慌てて立ち上がろうとしたけど・・・・・・まあ、いっか。
 いつも何かと世話にはなっているし、今日だってサンドイッチを持ってきてもらった。そのお礼だとおもえば膝枕くらい安いものだろう。
 それに、その・・・・・・なんだ。
 こんな間近で、草壁さんの寝顔を見ることが出来るなんて、そんなに機会があるわけじゃないし。
 両腿に草壁さんの体重を感じながら日向ぼっこを続ける。
 まずいな、俺まで眠ってしまいそうだ・・・・・・ふぁぁ。


「貴明さん」


「あ、ごめん、起こしちゃった?」


 草壁さんは静かに目を伏せると、軽く首を横に振る。


「ねえ、貴明さん。貴明さんはあの約束のこと、覚えてくれていますか」


 真剣な表情で、俺のことを見つめる草壁さん
 でも、すぐに、申し訳無さそうに顔をそらしてしまう。


「ご、ごめんなさい。急に変なことを聞いてしまって」


「もちろん、覚えているよ、高城さん」


 立ち上がろうとする草壁さんを手で制して、ゆっくりと笑顔で言ってあげる。
 小学校のころ高城さんに、俺の名前をあげるって言った約束。
 忘れるはずなんて、ない。


「貴明さん、私、いまとっても幸せです」


 草壁さんの細い指が、俺の制服を握り締める。


「いつもみんなと、このみちゃんや、雄二さんや、それに貴明さんと一緒にいることが出来て・・・・・・でも、だからこそ不安になるんです。あのとき、両親が離婚して、私が高城優季から草壁優季に変ってしまったとき、もし貴明さんと離れ離れになっていたらどうなっていたんだろうって。貴明さんが呼んでくれた私は、私のままでいられたんだろうかって」


 俺の体に抱きつく草壁さんを、俺はゆっくりとその髪を撫でてあげる。草壁さんの不安が少しでも消えるように。
 俺が、ここにいるよ、って証明してあげるために。


「大丈夫、俺はどこにも行かないよ。ずっと草壁さんの側にいる。それに、たとえほんの少しだけ離れ離れになったって、草壁さんには俺の名前をあげたんだから、だから、草壁さんが別の誰かになってしまいなんかしない。頑張るっていっただろ、ずっと一緒に遊ぼうって」


「貴明、さん」


 俺を見上げる草壁さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 怖い夢でも見たのかな。
 でも、その表情には笑顔が浮かんでいて、草壁さんが安心したことが嬉しいのと同時に、綺麗だな、なんてずいぶんと場違いな感想を抱いてしまった。


「草壁さ・・・・・・優季


 その瞳から、もう目をそらすことなんて出来やしない。
 優季の肩を抱く手に力が入る。
 だんだんと2人の顔と顔の距離が近くなっていって。


──あと30センチ──


 優季の瞳が閉じられる。


──あと20センチ──


 息遣いどころか、体温まで感じられるようになってきた。


──あと10センチ──


 2人の唇が、とうとう触れあ


「あ〜〜〜〜〜っ!!」


 このみの叫び声に、俺と草壁さんはソファの端と端まで一気に飛び跳ねる。
 も、もう少しだったのに、じゃ無くて、優季も顔を真っ赤にして俯いてる、でもなくてえーっと、その、どうした、このみ。
 このみに顔を赤くしていることがバレはしないかドキドキものだったが、そんなことには全く気付く様子もなくこのみは俺に時計を指し示す。


「タカくんタカくん、大変だよ、遅刻しちゃうよ〜」


 遅刻って、まだそんなに慌てるような時間でもないだろ。
 時計は、7時45分。まだ十分に余裕が・・・・・・って、あれ。
 さっき見たときも7時45分じゃなかったか?


「た、大変です、貴明さん」


 そういって優季が見せてくれた腕時計は・・・・・・・

 
『8時15分』


「ヤ、ヤバイ!!」


「タカくん、先に行くよ〜」


 おい、コラ、待てこのみ。カバンも持たずにどこへ行く気だ。


「貴明さん、私たちも急がないと」


「ああ」


 左手で自分のカバンを手に取って、そして右手は、優季の手を握り締める。
 優季は少しだけ頬を赤らめたけど、笑顔で力強くうなずくと、俺の手を握る指に力を込めてくれた。


「行こうか、優季


「はい、貴明さん。一緒に、ずっと一緒に行きましょうね」


 玄関の扉を開けると、外には限りなく澄んだクリアブルーの空が広がっていた。
 このままじゃ、よほど急がない限り遅刻は確実だろう。
 先を走るこのみを追いかけて、途中でこいつも遅刻しそうな雄二を追い抜き、俺と優季、2人で手をつないだまま学校の前の坂を駆け上がっていく。
 これから2人の間には、いろいろなことが起きるんだろう。
 楽しいことや嬉しいことだけじゃなく、辛いことや、悲しいことも。
 けれど、優季といっしょならどんなことでも乗り越えていける。2人は、絶対に離れ離れになんてならない。
 両手を伸ばせば体ごとその青に溶け込んでしまいそうな、そんな吸い込まれそうなくらいの春の青空が、まるでこれからの2人を祝福してくれているようだった。




   終