■
「イルファさん」
リビングに向かうと、キッチンでイルファさんが食器を拭いているところだった。
「イルファさん、俺の靴下が無いんだけど」
カチャカチャと音を立てて、丁寧に食洗機のお皿を拭くイルファさん。
「どこにしまってあったっけ? イルファさん?」
聞こえていないはずは、ない、と思うんだけどな。
けれどイルファさん。まるで俺が呼んでいることになんか全く聞こえていないように洗い物を片付けている。
「イルファさーん? ・・・・・・あ」
思い出した。
それなら確かにイルファさんが、俺の声に気が付かないフリをするのだってわかるけど。
でも、まさか本当に本気で言っていたなんて。
「えっと・・・・・・あー」
けれどいざ言おうとしても、なかなか問題があるわけで。
そりゃ、イルファさんがそうしろって言ったんだから、悪いことなんかあるはずないんだけれども。
どっちかといえば、これは俺の気持ちの問題だろう。
緊張で、唾を飲み込む音まで聞こえてきそうだ。
「・・・・・・イルファ」
「はい、どうかなさいましたか、旦那様」
俺がそう言うと、イルファさんはくるりとこちらに笑顔を向ける。
けれど俺は気が付いていた。俺が言いにくそうにしている間、イルファさんがずっとこちらのことを気にしていたことを。
だって、イルファさん。徐々に体がこっち向きにずれてきていたんだもの。
「えっと、俺の靴下、どこにしまってたっけ? タンスの中に見つからなくてさ」
「旦那様の靴下なら、先日引き出しの方へ移しましたが。見当たりませんでしたか?」
「あ、引き出しの中だったっけ。ありがとう、探してみるよイルファさ・・・・・・イルファ」
「はい、どういたしまして、旦那様」
笑顔でうなずくイルファさん。
それはもう楽しそうだ。
けれど俺の方はと言えば、イルファさんを呼び捨てにして、さらには「旦那様」なんて呼ばれて。なんとなく恥ずかしいような、申し訳ないような気持ちになる。
だってあのイルファさんを、「イルファ」だもんなぁ。
ごぞごそとタンスの引き出しを漁りながら考えるのは、ついさっき、イルファさんと交わした会話のこと。やっぱり、軽々しく「お願い事を聞く」なんて言わないほうが良い、ってことなんだろう。
喜んではくれているみたいだから、いつもお世話になっているお返しとしては悪くはないんだろうけど。
でもまさか、いつものお返しに「今日一日、旦那様とお呼びしてもよろしいですか?」なんて言ってくるとは思わなかったからなぁ。
その後で「それでは旦那様は、私のことをイルファとお呼びくださいね、旦那様」なんて。あんな笑顔で言われれば、断れるはずなんてないじゃないか。
お陰でこうやって、照れくさい思いをしているんだけれど。
「旦那様、靴下、見つかりましたか?」
「あ、うん、あったよ。イルファ」
名前を呼ぶ前に、どうしても一呼吸あいてしまう。なかなか慣れそうにない。
イルファさんもそんなに可笑しそうにするくらいなら、こんなお願いしてくれなければいいのに。
「いーえ。旦那様からおっしゃったことなんですから。今日一日、きちんと呼ばせていただきますからね、旦那様♪」
イルファさんの決意は固い。できればどこかで勘弁してもらいたかったんだけど、ここまで嬉しそうだとそれも申し訳ない。
あーもういいや、俺も男だ。恥ずかしいだとか照れくさいだとか言わないで、きちんとイルファさんのお願いを聞いてあげよう。
そう、たかだかイルファさんを呼び捨てにするだけじゃないか。瑠璃ちゃんだってイルファさんのことは「イルファ」って呼んでいるんだ。俺にそれができないはずが無い。
・・・・・・顔が火照るのも、そのうち収まるだろう。
「それで、イルファどうしたの? ありがとう、おかげで靴下なら見つかったけど」
「はい。その、折角ですからその靴下を、旦那様に履かせて差し上げようかと。やはり旦那様ですし、それ用のお世話をいたしませんと」
「流石にそれは勘弁して」
「イルファ、そっちのドレッシング取ってくれる? オレンジ色の方」
「はい、旦那様。こちらでよろしいですか?」
「うん、ありがと」
瓶を取ってくれたイルファにお礼を言いながら、サラダにドレッシングを掛けていく。
「旦那様、ご飯のお代わりはいかがですか?」
「あ、じゃあ貰おうかな」
茶碗を渡すと、イルファはキッチンへとご飯のお代わりを取りにいってくれた。こっちがお代わりをお願いした時は、いつも嬉しそうにご飯を持ってきてくれるイルファだけど。でも今日は、いつもに増して機嫌が良さそうだ。
お陰で俺の方まで気分がよくなって、おいしい料理が一段と美味く感じられるっていうものだ。
「珊瑚ちゃん、どうかした? 俺の顔何か付いてる?」
たださっきから、珊瑚ちゃんがじっと俺の方を見つめてくるのが気になると言えば気になる。箸もあんまり進んでいないようだし。
「はいどうぞ、旦那様。ご飯、これくらいでよろしいですか」
「ありがとう。こんなもんでいいよ」
「どういたしまして」
「いっちゃんええなぁ。貴明とラブラブしとって」
珊瑚ちゃんがのその一言で、お茶碗を受け取ろうとした腕が固まってしまう。もう少しで落とすところだった。
「えっと、そうかな?」
俺、イルファとそんなにいちゃついたりしてたっけ? 別に普段と変わらないと思うんだけど。
でも珊瑚ちゃんは納得行かない様子で、俺とイルファを睨んでくる。
「だって貴明、いっちゃんのこと『イルファ』−って呼んでる。いっつもはイルファさんなのに」
そう言われて、ようやく気が付いた。
俺、いつの間にイルファさんのこと、意識せずに呼び捨てにしてたんだろう。今更そのことに気が付くと、今までの分一気に恥ずかしくなってきた。まるで金魚のように口をぱくつかせて、イルファのことを見る。
なのに当のイルファさんは「残念」みたいな顔をして。
「イルファばっかり、ちゃんと名前呼んでもらってずるいなあ。なーなー、瑠璃ちゃん
もそう思うやろ」
「う、うち知らんそんなこと」
急に話を振られて、慌ててご飯をかきこむ瑠璃ちゃん。
ずるい、とか言われても、じゃあどうしろと?
「申し訳ございません珊瑚様。ですが旦那様にはきちんと、私の名前を呼んでいただかなくてはなりませんので」
「むー・・・。あ、なあなぁ、ならな、貴明もうちらのこと、ちゃんと名前で呼んだらええんや」
「ご、ごちそう様。うちお風呂はいってくる」
瑠璃ちゃんはそう言って箸を置くと、逃げ出すようにお風呂場へ行ってしまう。瑠璃ちゃんも、俺に「瑠璃」なんて呼ばれるのは勘弁して欲しかったようだ。
「あ、瑠璃ちゃん待って。うちもはいるー」
俺だってイルファさんだけでこうなのに、更に珊瑚ちゃんと瑠璃ちゃんまで呼び捨てなんてきっと恥ずかしさに耐えられない。
しかもついうっかり口を滑らせて、学校や雄二の前で「珊瑚」とか「瑠璃」なんて呼んだ日には、一体何を言われ続けることか。
瑠璃ちゃんを追いかけて、珊瑚ちゃんがお風呂に行くと、ようやくテーブルは落ち着きを取り戻してくれた。
「ご馳走様」
「お粗末様でした。お茶をお淹れしましょうか?」
「あ、うん、ありがとう・・・・・・イルファ」
きっと笑われるだろうとは思ったけど、やっぱり笑われた。
「別にもうよろしいんですよ。私は十分、満足させていただきましたし」
「いや、でも、今日一日って約束だったしさ」
まあ、また珊瑚ちゃんに焼餅を焼かれても困るから、二人の前では極力呼ばないようにはするけど。
「でしたらもっと、堂々と呼んで下さればいいですのに。それともやっぱり、旦那様と及びするのは恥ずかしいですか?」
「確かに恥ずかしいっていうのもあるんだけど」
でもそれだけじゃなくて。
「俺、本当にイルファにそう呼んでもらえるほど、イルファに何かをしてあげられてるのかなってさ。イルファさ──イルファには、こうやっていつもお世話になってしまってばかりなのに」
だから、たまにはイルファのために何かをしてあげたくて、さっきだって何かをして上げられないか聞いたんだし。
「確かに旦那様、朝はちゃんと起こして差し上げなければベッドから出てきてくださいませんし、靴下だって、私が場所を教えてあげませんと場所もわかりませんが」
イルファの言葉が胸に突き刺さる。いや、全くその通りなんだけど。
でもイルファの口からあらためて言われてしまうと、本当にどこが旦那様なんだか。
「ですが旦那様。私、旦那様からそれ以上のことを、たくさんして貰っているんですよ?」
そう言って、イルファは隣のイスに腰を掛けると、俺の方に体を寄せてくる。肩を通して感じることのできる、イルファの体重と体温が恥ずかしい。心臓の音が、聞こえてしまわなければ良いんだけど。
旦那様は、いつもこうやって私のことを愛してくださいますから。
でも、こんなことくらいで良いの?
はい♪
「それでは旦那様、もう一つだけ、お願いをしてもよろしいでしょうか」
「えっと、何?」
そう言ってしまってから後悔した。
さっきだって、これで旦那様なんて呼ばれることになったのに。
「いつか必ず、私の本当の旦那様になってくださいましね」
イルファはそう言って、笑顔を浮かべながら目を瞑る。
頑張らなきゃな。イルファのお願いを聞いてあげるためにも。
そう思いながら触れたイルファの唇は、なんだかいつもより、柔らかかったような気がした。
カーテンが開けられて、朝の日差しがまだ眠っていた俺の目に飛び込んでくる。
思わず布団を被ろうとすると、誰かの手でそれを押さえられてしまった。
「貴明さん、もう朝ですよ。早く起きてご飯を食べてください。学校に遅れてしまいますよ」
そう言いながら、軽く体を揺さぶられる。
「イルファ、もう後10分、いや5分でいいから。もうちょっとだけ、寝かせて」
イルファの手の動きが止む。
ああ、きっとこれは、イルファが俺のお願いを聞いてくれたんだ。じゃあ、お言葉に甘えて、あと、10分。
けれどベッドの傍らの、イルファの気配はそこから離れようとはしない。それどころかますますこちらに近づいて来て。
「朝ですよ、起きてください。私の旦那様」
耳元で囁くイルファさんに、俺は慌てて跳び起きる。
終