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「本当にご主人様は、シルファがいないとダメダメのダメっこさんなのです」
「め、面目ない」
それでも、ショッピングカートを押して、スーパーの陳列棚を眺めるシルファちゃんの表情はとっても嬉しそうで。
俺も、嬉しい。シルファちゃんに謝りながら、けれど、またこうやってシルファちゃんと今までのように会話できるのが嬉しくてしょうがない。
シルファちゃんが、俺のところに戻ってきてくれた。あの時、約束した通りに。また、俺のメイドロボになってくれるために。
時間にすればたった二週間のことだったのに。配達人の服を脱いで、いつものメイドロボの服に着替えたシルファちゃん。今もうきうきとして野菜を見比べるシルファちゃんの後姿を見ていると、この二週間が、俺にとってどれだけ待ち焦がれていた時間だったのかが良くわかった。
『うん……これからもずっとね』
配達人の服を着て、メイドロボの受け取り確認書を握り締めたシルファちゃんに、俺はそう言うのがやっとだった。
前と全く変わらないシルファちゃんの笑顔を見ていると、もうそれ以上我慢していた物を抑えきることができなくなってしまって。玄関の扉が開けっ放しになっていることも忘れて、シルファちゃんのことを抱き締めて。シルファちゃんも、俺のことを抱き締めてくれる腕に力を…
「ご主人様、聞いているのですか!?」
「え、あ、なに?」
シルファちゃんに急に声をかけられて、慌てて答える。
「何が急に、ですか。さっきから何度も呼んでいるのですよ!」
全く気が付かなかった。よっぽど、さっきの記憶に浸っていたらしい。
シルファちゃんは『やっぱりご主人様はあんぽんたんなのれす』とでも言いたそうに俺のことを見つめてきて。し、失礼だな。ちょっと考え事をしていただけじゃないか。
「事実ではないのですか。もとからどじっ子だあんぽんたんだとは思っていたですが、たった二週間、シルファが家を空けただけでどうやったらあんなに家の中を汚くできるのですか!」
シルファちゃんの剣幕に、たじろぐ俺。それを言われると、さすがに厳しい。
玄関で熱い抱擁を交わした後、家の中に入ったシルファちゃんが最初に発した言葉が
『な、何れすかこれは…』
だった。
リビングを見回してまず目に付くものが、ゴミ箱からあふれた弁当のカラ。テーブルの上に散乱する使用済みの食器。
部屋の隅には埃がたまりだしているし、洗濯物だってソファーの上に散らかっていた。
我ながら、シルファちゃんがいなかった間の荒み方は普通じゃなかったと思う。そりゃ、シルファちゃんが驚くのも無理はない。
おかげで感動の再開もそこそこに、シルファちゃんにお尻を叩かれるみたいに家の掃除をする羽目になってしまった。
二人で慌てたように片付けて、ようやくさっき、何とか家の環境を人が住めるものにして。これもまた当然のように空っぽの冷蔵庫に唖然とするシルファちゃんと一緒に、こうやってスーパーまで食材の買出しに来ていると言う訳だ。
シルファちゃんと一緒にスーパーに買い物に来る。あの時はそれだけで一苦労だったのに、今ではそれを自然に行うことができる。たったそれだけのことだけど、これも、いままで二人が築き上げてきた信頼の結果だと思うとなんとなくくすぐったい。
「何をしまりの無い顔をしているのですか。シルファは怒っているのですよ!!」
また怒られた。頭をかきながら謝って、でも、表情が緩んでしまうのは抑えられなくて。
今の俺には、シルファちゃんの声が聞けるのなら、例えそれが怒り声であっても心が浮き立ってしまう。
以前と変わらないままのシルファちゃんの、以前と変わらない…変わらない……あれ?
「『なの“です”』?」
“れす”じゃなくて?
「ぷっ、ぷぷぷぷ、ぷぷっ」
急に立ち止まって、俯いてしまうシルファちゃん。
どこか調子でも悪いのかと思ったんだけど。
「ぷっ、ぷぷぷぷぷぷ、今頃気づいたなんて。やっぱりご主人様はシルファがいないと何もできない、だめだめのどじっ子ご主人様です」
不敵な笑顔で、俺のことを見返してくる。
やっぱり、シルファちゃんの人見知りの原因だった、あの口調が直っている。
「シルファをあの時のシルファのままだと思わないで欲しいのです。全ての欠点を克服し、ご主人様の言いつけを完璧に遂行する。まさに! 生まれ変わった! パーフェクトシルファなのです!!」
おおー。
思わず拍手。そう言えば、配達員の格好をしてた時も普通にしゃべっていたし。
でも、あれだけのコンプレックスになっていたことを克服したんだ。この二週間の間に、よっぽど努力したんだろう。
やっぱり、それも俺の所にもう一度来てくれるためだったんだろうか。そう考えると、少しだけ面映くて、それよりもずっと強く嬉しくなる。
「そんな大したことじゃあないのです。シルファがちょっと本気を出せば、これくらいお茶の子さいさい河童のへー、なのです。前だってやろうと思えばすぐに直せたけど、いちいちそんなことのために時間を使うのは馬鹿馬鹿しかったから直さなかっただけで。それをイルイルが大げさに言うものだから」
そう言って、シルファちゃんは胸を張る。口ではいろいろ言っているけど、でもコンプレックスを克服できたのは素直に嬉しいみたいだ。
「でも、がんばったことに違いはないんだろ。えらいえらい。さすがシルファちゃんだ」
「ふふん、もっと褒めるといいのです」
うん、本当にすごい。シルファちゃんはやっぱり、努力すれば何だって出来る子なんだ。
スーパー中の人たちに、それを大声で教えてやりたくなる。俺のメイドロボは、こんなにすごい子なんだって。
「これでもう、シルファには怖いものはありません。ミルミルのアンポンタンはおろか、イルイルだって近い将来、シルファの前に跪かせてやるのれす!!」
……あれ?
「シルファちゃん、今」
「な、ななな何を言っているのれすか。シルファは本当に克服したのれす。それを疑うなんてご主人様は愛する自分のメイドロボの言うことが信じられないのれすか!」
ごまかそうとすればするほど、ドツボにはまっていってしまう。
あー、いくらあたりを見回しても、ここにダンボール箱はないから。
「わ、笑ったれすね。シルファのあられもない姿をみて愚弄したれすね。ひどいれす、ご主人様は鬼畜れす、人非人なのれ──
俺は口元に苦笑を浮かべながら、シルファちゃんの頭に手を置く。ぐりぐりと頭をなでてあげて、ようやくシルファちゃんも落ち着いてくれる。
「ごめんごめん、笑うつもりはなかったんだけどさ」
「ほ、本当に治ったんだもん。今は、たまたま、たまたま言い間違えただけで」
「うん、そうだね。シルファちゃんは俺のために、がんばって弱点を克服して帰ってきてくれた。でも、今までの癖がまた、ちょっとだけ抜けていないんだよね。癖じゃ仕方ないよなー。けど癖だし、そのうち直っちゃうか」
「そ、そうなのです。癖だから仕方ないのです。そのうち直ってしまうのです、なのにご主人様が騒ぐから」
「あはははは、ごめんごめん。でも、弱点を克服したシルファちゃんも凄いと思うけど、弱点を克服しようと努力しようとするシルファちゃんも凄いと思うよ。俺、努力とか根気とか得意じゃないから」
「それは得意じゃないんじゃなくて、ご主人様が単純にやる気がないだけなのです。少しはシルファの爪の垢でもせんじて飲めばいいのです」
しゅん、と落ち込んでしまうシルファちゃん。けど、言い合いをするうちにまた、いつもの調子を取り戻してくれた。
やっぱりシルファちゃんはシルファちゃんのままだった。いろいろ人間的に(メイドロボ的に?)成長したけど、ダンボールで送られてきて、初めて会った時から変わらないでいてくれる。
もう一度頭をなでてあげると、うれしそうに目を細めてくれた。
「これくらいで許してもらえるなんて、思わないで欲しいのです」
「許してくれないと困っちゃうなぁ。俺、もうお腹ぺこぺこだし。久しぶりにシルファちゃんの手料理、凄く楽しみにしてたんだけど。でもシルファちゃんが許してくれないなら仕方がないか。自分で何か作らないと」
「え、あっ、ご、ご主人様が自分で作った料理なんて、栄養らって偏ってるし、お塩だって多すぎらし、そ、そんなもの食べちゃだめれす。し、仕方ないれす。本当はご主人様のこと許してないれすけど、今日は特別れす。シルファがご主人様のご飯、作ってやるのれすよ」
ありがとう。俺がそう言うと、シルファちゃんはぷいっ、と首を向けてしまう。そして「ご主人様のご飯は、一生シルファが作ってあげるのれすから」なんて、首まで真っ赤にして。
「え、何? シルファちゃん、何か言った?」
「な、何でもないれす。さあ、ご主人様が餓死するまえに、早く買い物を済ませて家に帰るのですよ」
結局その後も、二人であれが美味しい、これが足りないと言いながら買い物を続けて、スーパーから出てきたときには二人とも、両手いっぱいに食材の入った買い物袋を持っていた。
これだけあれば、空っぽだった冷蔵庫の中もいっぱいになるだろう。
二人で重い荷物を持って家に帰ると、ちょうどご飯が炊けるところだった。
買い物袋の中身を、シルファちゃんと一緒にやってきた冷蔵庫に詰め込むと。早速、シルファちゃんが晩御飯の準備を始めてくれた。
野菜を洗う音や、材料を切る音。シルファちゃんが我が家にやってきて、いつの間にか当たり前になっていた光景。
シルファちゃんが帰ってきて、ようやくその当たり前が戻ってきてくれた。
「どうしたのですか、そんな変な笑い声なんて上げて」
「え、いや、なんでもないよ」
「やっぱり、ご主人様はおかしいのです」
そんな会話を、笑い声と一緒に交わす。
今日の晩御飯のおかずは、焼き魚に、お味噌汁に、サラダと。
焼肉のタレの野菜炒めだった。
「ご主人様、お風呂が沸いたのですよ」
夕食の後、久しぶりのシルファちゃんの料理に少し食べ過ぎて、重たいお腹をソファーの上で休ませていると。
「あ、そう」
シルファちゃんはそう言ったまま、もじもじとその場に立ち続けている。
「どうかした? お風呂、沸いたんなら入るんじゃないの? 空いたら教えてよ。次、俺も入るからさ」
でも、シルファちゃんはそこから動こうとしない。しかもなぜか、顔を赤くして。
「ご、ご主人様が先にはいるといいです。シルファは、ご主人様の次でいいれすから」
「え、でも」
シルファちゃん、今まではお風呂が沸いたらさっさと先にお風呂入っちゃってたし。入浴剤、自分の好きなもの選んでたんじゃないの?
「し、シルファはメイドロボなのです! ご主人様より先にお風呂に入るわけには行かないです。だ、だからご主人様は、さっさとお風呂に入ってくるれすっ!!」
大きな声で怒られて、何で、俺が怒られないといけないんだ? まるで追い立てられるみたいにお風呂に入らされる。
まだ少しお腹も苦しいし、本当に後でよかったんだけどなぁ。
シルファちゃん、戻ってきてまだ、俺に遠慮しているんだろうか。そんなこと考えなくてもいいのに。
沸かしたてのお風呂は、熱過ぎもせず、ぬる過ぎもせず、ちょうど良い温度だった。湯船に肩まで沈んで体を伸ばすと、今日一日の心地よい疲労感がゆっくりと溶けだしていく。
けど、まだまだ一日の終わりまでは時間が残っていて。シルファちゃんが戻ってきてくれてからの、時間の濃さに驚く。
きっと明日からも、今日と同じくらい一日が長く感じられるんだろう。シルファちゃんと一緒にいられたなら。
「ご、ご主人様、お湯加減はいかがですか」
そんなことを取り留めなく考えていると、脱衣所から声を掛けられた。わざわざ、そのことを聞きに来てくれたんだろうか。
「うん、ちょうど良いよ」
「そ、そうれすか。それは良かったのです」
それっきり、黙り込んでしまうシルファちゃん。
それから何かを聞いてくる訳でもなく、かと言って脱衣所から出て行く様子もない。ただ、そこにシルファちゃんがい続ける気配がするだけ。
な、何なんだこの緊張感。
そろそろこの、扉一枚をはさんだ空気に俺が耐え切れなくなって口を開こうとした瞬間、勢い良くお風呂場の扉が開かれた。
一瞬で晴れた湯気の向こう、お風呂場の入り口のところには、体にバスタオルだけを巻いたシルファちゃんが何か、思いつめたような表情で待っていた。
「ど、どうしたの?」なんとか悲鳴を飲み込んだ俺が、シルファちゃんにそう声を掛けようとすると、シルファちゃんはそんな俺のうろたえっぷりなんて無視するようにお風呂場の中に入ってきて。
そのバスタオルのすそから除く太ももだとか、恥ずかしそうに腕で隠す胸の部分だとかが俺の目の前に迫ってくる。見たくないなら見なきゃ良いじゃないかというのは正論だけど、でも、シルファちゃんのこんな姿を見せ付けられて目を逸らせることのできる男がいるだろうか。
完璧に混乱した頭と体で、まるで金縛りにでもあったみたいにシルファちゃんのことを見つめ続ける。
「ごごご、ご主人様、お背中を洗いにきましたのですっ」
ひっくり返り気味の声で、シルファちゃんが俺にそう呼びかける。
背中? どうして!?
「し、シルファはご主人様のメイドロボなのです。め、めめ、メイドロボが、ご主人様のお世話をするのは当然のことなのれ、です。だから、ご主人様の背中を洗いに、シルファは来たのですっ!」
シルファちゃんのその声で、ようやく体の金縛りが解けてくれた。見ればシルファちゃん、顔を真っ赤にして。体も緊張のせいなのか、小刻みに震えている。
無理しちゃって。
「シルファちゃん」
「ぴっ!?」
ガチガチに緊張してしまっているシルファちゃん。こんな様子じゃ、こっちが何を言っても聞こえはしないだろう。
だから俺は、湯船からそっと腕を取り出すと、それをシルファちゃんの頭の上に置く。
「別に、そんな無理することないんだよ?」
「別に、別にシルファ、無理なんて──ぴぴぃっ!?」
腕を今度は、頭の上からシルファちゃんの肩に触れると、弾かれるみたいにシルファちゃんの体が反応する。
「で、でもシルファ、今度は自分の意思で、ご主人様のメイドロボになったれすから。らから、らからご主人様のお世話らって、いままでよりずっとしないと」
「じゃあシルファちゃんは、俺がご主人様だから俺のお世話をしてくれるの? ご主人様登録があるから、俺のことお世話してくれるの?」
「それは、違うのれす。シルファはご主人様がご主人様らからお世話をするんじゃなくて、シルファがお世話したいのが、ご主人様らから。ご主人様に喜んでほしくて、お世話したいのれす…らから」
結局、シルファちゃんもまだ不安なんだろう。新しくご主人様登録をして、俺のところに帰って来ても。
俺が、シルファちゃんがいない二週間、本当にシルファちゃんが戻ってきてくれるのか不安だったように。いつか自分が、俺に捨てられてしまうんじゃないだろうかって。
そんなこと、ある訳がないのに。
「俺も。俺がシルファちゃんと一緒にいたいのは、シルファちゃんがメイドロボだからじゃない、そう言ったろ? 俺がシルファちゃんと一緒にいたいのは、シルファちゃんがシルファちゃんだから。特に、俺に向かって笑顔でいてくれるシルファちゃんなんて最高だな」
シルファちゃんの頭を撫でながら、俺はそんなことを言う。
「だからさ、シルファちゃんは無理してまで『メイドロボ』をする必要は無いんだよ。シルファちゃんがシルファちゃんのしたいように、俺のことをお世話してくれる。俺はそれだけで嬉しいんだから」
その後も、俺はシルファちゃんの頭を優しく撫で続ける。
そのうち、ようやくシルファちゃんの肩の緊張も解けてきて。手を離すと、ちょっとだけ名残惜しそうにしてくれたのが嬉しかった。
「それじゃあ、俺、もうちょっとだけお風呂に入ったら上がるからさ。シルファちゃんも一度、服に着替えて外で待っていてよ。そのままでいると風邪ひいちゃうよ」
「はい……あ」
俺の言葉に、一度は頷いてくれたシルファちゃんだったんだけど。でもなぜか、居心地悪そうにその場でもじもじとして立ち上がろうとしない。
「あ、あの、ご主人様」
「ど、どうかした?」
言うべきか、言わざるべきか。シルファちゃんの様子からそんな雰囲気がありありと伝わってくる。
けれど結局言おうと決心したのは、確かにこのまま言わないでいて、また後で気まずい思いをすることは避けたかったからだろう。
「あの、シルファもう、ご主人様の手でびちゃびちゃに…」
言われてみて、そう言えばシルファちゃんの頭も体も、俺の手からついたお湯のせいで濡れてしまっている。
特に拭きもしないで頭を撫でたり、肩を抱きしめたりしたんだから、考えなくったって当然のことだろう。
「ご、ごめん! お、おれ今すぐ出るから、シルファちゃんはこのままお風呂入っててよ
「だめれす、ご主人様まだ体あったまっていないのれすから。いまお風呂から出たら風邪を引いてしまうのれす!」
だからといって、このままシルファちゃんをお風呂場から追い出したんじゃ、シルファちゃんが風邪を引いてしまう。いくらメイドロボとはいえ、濡れたままの体でいるのが体に良いはずがない。
ただ、シルファちゃんの方も頑なで。これじゃあどうしたって俺の言うことを聞いてくれそうにない。ご主人様の命令って言うことで、無理にでもお風呂に入ってもらっても良いんだけど、できればそう言うことはしたくないし。
「あ、それじゃあさ」
俺が出て行くのもだめ。シルファちゃんが出て行くのも以ての外。それじゃあ、取ることのできる道は一つしかなくて。
「シルファちゃん、一緒にお風呂、入らない?」
「いっ──!?」
シルファちゃんの顔が、一瞬で茹ダコみたいに真っ赤になった。きっと、言っている俺も似たようなもんだろう。
「あんまり広いお風呂じゃないけど、つめればもう一人くらい入れるしさ。シルファちゃんが嫌じゃなかったらだけど、どう?」
真っ赤な顔のまま、ゆっくりと頷くシルファちゃん。
立ち上がると、体に巻いたバスタオルを取ろうとして──
「む、向こうを向いててくらさい! シルファをバスタオルのままお風呂に入るような、じょーしきのないメイロロボにする気れすか!!」
「ご、ごめんっ」
あわてて首を後ろに向ける。
バスタオルがはだける音、なんて物は当然のように聞こえないんだけど。代わりにバスタオルを脱衣所に置く音と、シルファちゃんが恥らいながら湯船に入ろうとする雰囲気だけが、後頭部の方から痺れるくらい伝わってきて。
そしてこともあろうに、シルファちゃんは浴槽の反対側、隙間を開けた部分じゃなくて、よりにもよって俺の膝の上に座り込んで。
「なーっ!?」
俺が叫び声を上げた時にはもう遅く。シルファちゃんの背中が、お風呂の中でぴったりと俺の胸に触れ合ってしまっていて。
「ししし、し、シルファちゃん!?」
「シルファは、ここが良いのです」
それっきり、有無を言わさないように黙り込んでしまう。後ろ向きに座っているせいで表情はわからないけど、で、でもこれは。
「シルファちゃん、こんな、ミルファちゃんみたいな真似しなくても」
「ミルミルにされるのは良くて、シルファにされるのはダメなのですか。そーですか、結局ご主人様は、おっぱいの大きいメイドロボの方が良いのですか」
いや、そうじゃなくて。むしろその反対だから困ってしまうというか。
ちなみに、胸のことじゃないぞ。
「ととととととにかく、早くどいて」
そうじゃないと、いろいろまずい事にーっ!
「あっ…」
しかし、それはもう手遅れだった。
そりゃそうだろう。目の前には火照って赤く色づいたシルファちゃんのうなじが見えて、ぴったりと密着するシルファちゃんの肌はすべすべで。しかも“それ”は、シルファちゃんのお尻のしたで直接刺激を受けてしまってるんだから。
「か、硬くなってきたのれす」
解っているのなら、早く、全て俺の理性が無くなる前に。
「……嬉しいのれす。ご主人様、シルファでこんなに反応してくれて」
恥ずかしそうに、そんなこと言っちゃダメー!!
「ご、ご主人様さえ良かったら、しても、いいのれすよ。こんなところでするのは恥ずかしいれすけど、ご主人様が喜んでくれるのれしたら、シルファ何でも──ぴぴぴぃっ!?」
赤く染まった湯船に、シルファちゃんが叫び声を上げる。とうとう我慢しきれなくなって、俺の鼻から血がダラダラと。
「ご、ご主人様、大丈夫れすか!?」
「ら、らいじょうぶ。ちょっと、のぼせたらけらから。おれ先にれるけど、シルファちゃんはもっとゆっくりはいっててよ」
鼻を押さえて、上を向いたまま慌ててお風呂場から逃げ出す。なんて、格好悪い。
辺りが濡れるのも構わず洗面台をあさって、母さんが化粧に使っていたガーゼを鼻につめて、ようやく上を向いていなくても良くなった。
幸い血は体にはついておらず、バスタオルで体を拭いてパジャマに着替えた。
お風呂場からはシャワーの音。多分、俺の鼻血を洗い流しているんだろうなぁ。そう思うと情けないやら申し訳ないやら。
せっかくシルファちゃんが、がんばってスキンシップを図って──
『ご主人様が喜んでくれるのれしたら、シルファ何でも』
また、鼻血があふれてきた。
ダメ、ダメー、思い出すの禁止っ!
このまま脱衣所にいたんじゃ、そのうち出血多量で死んでしまう。
まだ濡れた髪のまま、ドライヤーもしないでリビングに逃げ出す。
ミネラルウォーターを一本、一気に飲み干してようやく落ち着くことができた。ため息を一つ。
けれど落ち着いたところで、さっきのお風呂場でのシルファちゃんの肌の感触が忘れられるはずもなく。シルファちゃんがそばにいる訳でもないのに、いや、いないからこそ、シルファちゃんの肌のスベスベとした感触が生々しく思い出されてしまう。
そして、シルファちゃんのあの台詞。
『ご、ご主人様さえ良かったら、しても、いいのれすよ』
あ、あれはオッケーってことだよな。いや待て、あれはもしかしたら、『背中を洗っても良い』ってことだったのかもって、そんな訳ないだろ!
おおお落ち着け? そうだ、別に初めてって訳じゃないんだ。前だって一度、シルファちゃんとはしてる訳だし。そうだよ、今度こそ、ご主人様としてシルファちゃんを優しくリードして
「ご主人様、あがったのですって、何をしているのですか?」
動物園の熊みたいに、リビングとキッチンをうろうろする俺に、背中のほうからシルファちゃんが声を掛けてくる。
不振そうな声の響きに、実際不審者以外の何者でもなかっただろう、俺は取り繕うような作り笑顔を浮かべてシルファちゃんの方に振り向いて。
そして、言葉を失ってしまう。
「な、何をじろじろシルファのことを見ているのですか」
どれくらいそうやって、シルファちゃんのことを見つめていたんだろう。シルファちゃんに声を掛けられて、ようやく我に返ることができた。
「へ、変じゃないれすか?」
そこにいたシルファちゃんは、いつものあのメイドロボの服装ではなくて。
リボンやフリルのたくさん付いた、可愛らしいデザインの黄色いパジャマを着て。髪も、いつものように三編みにするんじゃなくて、そのまま背中に流されていて。
「やっぱり、どこか変れすか」
「い、いや、変じゃない。変じゃないどころか、可愛い、凄く可愛い」
いつもと違うシルファちゃんにドキリとさせられて、俺の心臓は一気に心拍数を上げる。
俺に褒められて、照れくさそうにシルファちゃんは目を伏せる。
「そのパジャマ、どうしたの」
「あ、これ、イルイルが餞別だから持っていきなさいって。似合って、ないれすか?」
勢い良く首を横にふり否定する。
似合ってるも似合ってる。まるでシルファちゃんが着るためにデザインされたみたいに。
「良かったれす」
そうやって笑顔を向けてくれるシルファちゃんに、また、顔のほうへ血が集まってしまう。
このままシルファちゃんを正視し続けていたら、顔から火がでてしまうんじゃないだろうか。それくらい、火照ってくる。
「あ、あの、ご主人様」
「な、なに」
「ちょ、ちょっと早いれすけど、そそ、そろそろ、お休みになった方が良いと思うのですよ。ご主人様、今日は家のお掃除とか、たくさん働いたれすから」
けれど時計を見れば、まだまだ夜は始まったばかりと言う時間で。いつもならここからテレビでも見て、それからネットを巡回して。
でも、いくら俺が鈍くたってシルファちゃんが何を言おうとしているかくらい気が付くことができる。
ただこういう時、何て答えるのが良いかがさっぱりわからないだけで。
「そ、そうだね。疲れたし、そろそろ寝ようかな」
からからの咽に何度も唾液を飲み込んで。搾り出すみたいにそれだけを言う。
「し、シルファちゃんは?」
「そう、お、おやすみ」
ばかっ!! そうじゃないだろ。見ればシルファちゃん、すごく残念そうに肩を落としちゃっていて。
また、俺はシルファちゃんを悲しませるつもりなのか!? 違うだろ? 俺は、シルファちゃんのご主人様なんだから。
「あのさシルファちゃん。お願いがあるんだけどさ」
その言葉は、言った本人が驚くくらい、あっさりと俺の口から出てきてくれた。
「俺、シルファちゃんがいない間、一人でいるのがすっっごく寂しくてさ。もしかしたらシルファちゃんが戻ってきてくれないんじゃないか、このまま、研究所から帰ってこないんじゃないかって考えちゃって、寝れなくなっちゃうこともあったんだ」
「うん。シルファちゃんはちゃんと俺のところに帰ってきてくれた」
だから、だからさ──
「一回あんなに寂しい思いをしちゃうともうダメなんだよね。もう二度とあんな気持ちにはなりたくない。シルファちゃんがいない夜なんて、もう絶対考えたくない。だからさ、シルファちゃん。こんな寂しがりやのご主人様のために、一緒に寝てくれないかな」
だめかな? そう、俯いてしまったシルファちゃんに声を掛ける。
「ほ、本当にご主人様はダメなご主人様れすね…し、シルファがいないと寂しいなんて、寂しいなんて……」
シルファちゃんの声はだんだんと空気に消えるように小さくなっていく。
その声が震えていたように聞こえたのは、きっと、俺の気のせいではないと思う。
「シルファも寂しかったれす! 二週間、たった二週間のあいららったのに! 研究室の明かりが消えたら、ご主人様のことばっかりうかんでくるのれす。シルファも、シルファもご主人様と同じくらい、寂しがりやなのれす」
「らから、シルファもご主人様と一緒に」そう言うシルファちゃんの手を握る。
すると、シルファちゃんの方からも俺の方に体を寄せてきてくれた。
手をつないだまま、二人で二階の俺の部屋へとあがる。
電気の消されたリビングの中には、もう一人で寂しく夜を過ごすメイドロボも、誰かを好きになることに怖がるようなやつももういない。
キッチンの、シルファちゃんと一緒にやってきた冷蔵庫の野菜室の中には。
さっき一緒に買ってきた、これから、シルファちゃんが俺のために作ってくれる料理の材料が、ずっと、ずっと先の分まで入っていて。
終